先にも述べたが、このギデンズの定義には精神医学や心理学の専門家から、正確には違うのではないかという指摘がある。にもかかわらず、精神医療の言葉ではなく社会学者の言葉を引いているのは、個人の心の問題(医療)ではなく、私たちの社会の共通の問題として扱いたいからだ。
そもそも、共依存という考え方はアルコール依存の患者と、その協力者(伴侶や家族の場合が多い)について用いられたことから始まった。どうして、当人に著しく不利になると分かっている行為を助けてしまうのか? 協力者の行為や協力者自体も治療の対象ではないか? おそらく、この発想は、依存症の治療が難しいことから生まれたのであろう。
いまでは共依存をめぐる議論の多くは、医療の中だけで解決できる問題なのか、という疑問を伴っている。この疑問は、よく理解できる。
あるべき社会や家族像についての価値判断が含まれやすい
思想哲学の分野では、ドゥルーズとガタリたちが、精神分析や心理学に対して、「いまある社会に適応する人間」を無条件に肯定してしまっていると批判したことがある。
眼鏡をかけるのは不道徳だとする社会を想像してみよう。改めるべきなのは、その社会の方であって、眼鏡なしでも耐えられるように人間を馴致(じゅんち)することは、何ら解決にならないことはいうまでもない。
同じことは共依存についてもいえる。共依存や共依存症については、それを分析し解釈する人間が持っている、あるべき社会や人間関係、家族像についての価値判断が含まれやすい。アルコール依存に限ったとしても、その背景には、貧困や社会不安、あるいは家父長制といった様々な要因があるにもかかわらず、共依存という言葉が広く知られるようになる中で、一面的に理解される傾向が強まったのではないか、という見方をする研究者もいる。
ここにいう一面的な理解には、共依存が、理想化された人間関係や家族像からの逸脱だと理解されるだけでなく、反対に、現在の人間関係や家族関係を解消する口実として、共依存が安易に持ち出されるということを含んでいる。
たとえば、ジョーアン=クレスタンとクラウディア・ベプコは、人間関係の中で、女性が背負ってきた役割を病理と見なして否定する、共依存という考え方そのものに異議を唱えている。
共依存は、元々「苦痛というものに名前を付け、その苦痛について言及するための試みを表す言葉であったにもかかわらず」「(共依存者を)病人として定義付けるための神話へと変質してしまった」というのだ。