彼、彼女たちは「あえて、分かった上でやっている」

しかし、「医療モデル」といっても、医者に任せれば、それでお仕舞いというわけにはいかない。

斉藤によれば、再犯防止プログラムの場で、「痴漢行為を手放すことで、あなたが失ったものは何ですか?」と質問したところ、「生きがい」と答えた受講者がいたという。また、痴漢常習者で、「自分の妻や娘が性犯罪被害にあったら?」という問いに、「相手の男を殺しに行く」と即答した人もいたという。さらに、痴漢ではなく性的暴行のケースでは、「僕は他の強姦犯と違う。思いやりを持って、必ずローションを使うから、相手を傷付けていない」と言う人もいたというのだ。

こうした認知の偏り、自己欺瞞は、認知バイアスが学習・訓練によって内面化された形だといえる。生まれながらの痴漢や万引きなどはいない。こう言ってよければ、彼や彼女たちは、「あえて、分かった上でやっている」、言い換えれば、自分自身を規律訓練してしまっているのだ。

治療が可能な社会と理解を促す努力が必要だ

性犯罪は、被害者に落ち度があったかのように言われることが未だにある。「被害に遭ったときの服装は?」という問いは、あなたにもスキがあったのでは? という意味を含んでいる。痴漢の場合には、加害者の家族が、偏見にさらされる。痴漢をする以外は、親からすれば「いい子」、妻からすれば「良き夫」、子供には「良い父親」であれば、なおさらだ。

母親は、自分の育て方を悔やむだけでなく、夫からも「お前の育て方が悪かったのではないか」と言われ、妻は、義理の両親や実の両親からも「お前さえ我慢すれば」と言われ、それどころか、「夫に性的な満足を与えられなかったお前が悪い」とあからさまに言われるケースさえあるという。

このようなことは、「犯罪モデル」では解決できないし、また、単に幼少期のトラウマや性的な衝動性など、「医療モデル」で理解して済ませるべきことでもない。「医療モデル」には、医療、治療が可能な社会と医療への理解を促す努力が必要なのだ。ただ、「医療+社会」といっても、患者への投薬からGPSの取り付けまで、その解釈には、かなりの幅があるのだ。

“共依存”はなぜ社会の病なのか

共依存症、共依存という言葉から、どういうイメージが浮かぶだろう。他人から認められたがっている、承認欲求の塊のような不全感のある人物だろうか? それとも、かつて流行したアダルト・チルドレンのような、面倒臭そうな自意識を持て余している感じだろうか?

社会学者のアンソニー・ギデンズは前述の『親密性の変容』の中で、

共依存者とは「自らの存在的不安を維持するために、自己の欲求を提起してくれる人を、一人ないし複数必要としている人間」であり、共依存関係とは「同じような類の衝動強迫性に活動が支配されている相手と、心理的に強く結びついている間柄」

と述べている。