死後を心配する、親たちの「あきらめ」
「親亡きあと」という言葉がある。ひきこもり問題の場合、高齢の両親が亡くなったあと、ひきこもっている子どもがどう生きていくかがしばしば話題にされる。しかし、少し不思議なことがある。「親亡きあと」という言葉を使って死後を心配するのは残される子どもたちではなく、当の「親」たちなのだ。親たちは人生を終えたあとまで親であることをやめられないことになる。
高齢のため相談に行くこともままならず、いざ相談に行っても根本的な対策がなく、疲弊した親たちは子どもの変化をあきらめるようになる。
ついには、ひきこもる子どもにできるだけお金を残そうと通院を控えたり、「いくらお金を用意したら子どもは困らないのか」などと、支援者に相談したりするようになる。その是非はともかく、親が子どもにできることは、もはや資産を残すことしかないという心境の親たちが多いということだろう。
ここにはいくつものあきらめがある。子どもが外に出ることも、働くことももうない。
また、これからどうするかを子どもと話し合うこともできそうにない。子どもを託しておけるような親族もいなければ、行政機関も期待できない。
「どのくらい資産を残せば自分たちの死後、子どもは生きていけるのか」
これは、不信感や絶望が幾重にも重なった結果出てくる言葉ではないだろうか。