やがてその才能を見込んだ魏の曹操が、賈詡を参謀として迎え入れます。しかし、賈詡は張繍の参謀だったころ、曹操の身内を討ち取っており、生え抜きの将軍から訝られます。

肩身は狭く、嫉妬を受ける中、手柄を立てることはかえって我が身を危うくすることを、それまでの失敗を通して学んだ彼は、密会や根回しの場にも顔を出さず、娘を政略結婚の道具にしないなど、恨みや妬みを買わぬ振る舞いを徹底します。御前会議でも、積極的に意見具申することもなく、曹操から求められてようやく「恐れながら」と細心の注意を払いながら自分の考えを述べる。そうやって周囲の嫉妬や恐れを回避しながら、賈詡は20年近く曹操に仕えることができたのです。

曹操は晩年、跡継ぎを嫡男のそうにするべきか、三男のそうしょくにするべきか頭を悩ませます。家臣たちが曹丕派と曹植派に分かれる中、賈詡はどちらにも与せず、中道を貫きます。考えあぐねた曹操が賈詡に「そなたはどう思う」と意見を求めてもなお、賈詡は「考え事をしておりました」と答えをはぐらかします。

曹操が「何を考えていた」と問い詰めるとようやく「えんしょうのことを考えておりました」とつぶやきました。袁紹は曹操とともに後漢を倒した武将の1人ですが、嫡男を廃したことで一族を滅ぼした人物。賈詡は直接口には出さず、暗に「嫡男の曹丕にすべき」と伝えたのです。曹操は賈詡の言に大笑い。初代皇帝となった曹丕は、賈詡を大尉に任命して報いています。

嫉妬をぶっちぎってのし上がっていく人

いつの時代も才能ある人は意外にいるものですが、大方は嫉妬に阻まれ、ほとんどが埋もれて消えていきます。ところが、それをぶっちぎってのし上がっていく人がたまにいます。

ナポレオンがそう。イタリア半島の西に位置するコルシカ島(現フランス領)生まれで、父親が「こんな片田舎では出世できない」からと留学させたフランスの軍人学校で、いきなり才能を発揮しますが、よそ者であることと相まって徹底的にいじめられます。

そのうえ、当時のフランスの軍隊の上層部は皆フランス人貴族。それが上の階級に上がる条件でしたから、才能があろうがなかろうが、出世は諦めるしかありません。

鬱々として自殺も考えていたところに、勃発したのがフランス革命でした。

貴族が一挙に亡命し、国内にまともな将軍がいなくなってしまいます。これが千載一遇のチャンスとなりました。南フランスの港湾都市トゥーロンで起こった反乱が数カ月たっても収まらなかったのですが、困った国民公会に白羽の矢を立てられたナポレオンはあっという間に制圧してしまうのです。