長谷川平蔵を研究した法制史学者・瀧川政次郎は「その閲歴及び逸話より推察して、平蔵の学問がよく出来たとは思われない」「実務家肌の切れものではあっても、学者肌の人ではなかった」という。同じく法制史学者の重松一義氏は「おそらく戦前の尋常小学校通知簿(成績表)流にいえば、幕府の評価は国漢乙、武道乙、修身丙程度であったろう」という。

なぜ成績が悪かったか。はっきりいえば遊ぶほうが楽しかったのだ。

平蔵が不良だったのは事実。

遊軍の小普請組時代、平蔵は放蕩三昧の日々を送っていた。悪友たちと遊び歩き、ゆすりやたかりまでしてカネを湯水のように使っていた。幼名の「銕(てつ)三郎」、屋敷のあった「本所」にちなんで命名された「本所の銕」の悪名は当時、江戸じゅうに知れ渡っていたという。

平蔵は悪事をはたらいていた経験があった。火付盗賊改になってからも市中を巡回してまわり、市井の人々と接していた。だからこそ、密偵たちの心の内を知りつくしていたのだ。

平蔵は、密偵たちを使うさい、次の3つを心がけていた。

一、自分たちのしていることは「人のため、世のためになる」と大義名分をはっきりさせる。
一、密偵たちを一人前に扱う。
一、身銭を切ってみせる。

「使う」立場にある平蔵が、「使われる」立場にある密偵たちの気持ちをわかっていたからこそ、密偵たちは「この人(上司)についていこう」と心を熱くしていたのだ。