日本人は「手先が器用」なのか

日本語については、「代名詞がなく、我、汝、彼の区別をしない」という指摘のほかに、おなじみの「文に主語がない」という指摘もあります。

「日本人は自尊心が強くない」とも言っていますが、最近の心理学では、第1章で紹介した自己観理論との関係で、この点について賛否の議論が闘わされています。

天才もいないが、「野蛮で無知な人物」も少なく、「ほとんどの人々が中間の領域にいる」(邦訳200頁)という日本人評も、戦後の日本人論では、似たような議論をよく耳にしたものでした。ローウェルは、「日本人は、インドや中国から文化を輸入し、模倣してきたが、自分で新しい考えを生み出すことはできず、独創性に欠けている」とも主張しています。

「日本人は子どもの段階で止まっている」という指摘は、ダグラス・マッカーサーがアメリカ議会で述べた「日本人は12歳の少年のようだ」という見解のなかにこだましています。「手先が器用」という形容も、日本人論の定番です。

このように、『極東の魂』には、日本人論の主な主張が既に出揃っている感があります。日本人論は、ローウェルの独断を延々とオウム返しにしてきたわけです。まさに、「一犬影に吠ゆれば、百犬声に吠ゆ」です。

プロパガンダ映画の余波

アメリカでは、ローウェルの「没個性」論が土台になって、「日本人」のイメージができあがっていきました。

第二次世界大戦が始まったころに書かれて、アメリカで出版された『敵国日本(※6)』という本があります。著者は、戦前、「タイムズ」や「ニューヨーク・タイムズ」に日本から記事を送っていたヒュー・バイアスというジャーナリストです。この本のなかで、バイアスはこう書いています。「独裁者が出現しないのは、政治的に日本は個人から成り立つ国家ではなく、比喩をもって表現すれば、巣箱の防衛のために集団で活動し、騒ぎ立て、戦う、ひと箱のミツバチだからだ」(邦訳12頁)。

やはり第二次世界大戦のさなか、アメリカは『汝の敵を知れ――日本』というプロパガンダ映画をつくりました。監督は、アカデミー賞の監督賞を3回も受賞したフランク・キャプラでした。

この映画は、日本人は、「同じネガから焼きつけた写真プリント」のように、個性のない人間たちだと説明します。そして、小学校の教室で、生徒が一斉に手を上げ、「本」という字を空中に書いているシーンを映しだします。いかにも「個性のない人間たちの集団行動」に見えるシーンです。