「アメリカとは逆」という印象
じっさい、ローウェルは、日本人について、ずいぶん見当はずれなことを書いています。たとえば、彼は「日本人には恋愛感情がない」と断言します。「運命の女神は節約し過ぎて、彼らに恋心を与えなかった」(邦訳51頁)というのです。同じアメリカ人でも、『源氏物語』を英訳したエドワード・サイデンステッカーなら、この意見には同意しなかったでしょう。むろん、日本人のなかに同意する人がいるとは思えません。読者はどうでしょう?
『極東の魂』は、「日本では、何もかもが逆さまだ」という話から始まっています。「言葉の順序を全く逆にしてしゃべること、書く時には筆を右から左に動かすこと、本は一番最後の頁から読むこと」(邦訳10頁)。この「アメリカとは逆」という印象をベースに、日本人の個性を感得できなかったという実体験、アメリカ人の個性を誇りとする「アメリカ・ファースト思想」、スペンサーの社会進化論、それに、ヘーゲルの歴史観などがないまぜになって、「日本人には個性がないはずだ」という先入観ができあがり、その先入観にもとづいて、日本で見聞きした事物を解釈したのでしょう。「日本人には個性がない」という主張は、事実の正確な観察にもとづく帰納的思考の産物ではなく、先入観にもとづく演繹的思考の産物だったということになります。
『極東の魂』の影響力
しかし、アメリカ人の先入観に発した主張だけに、ローウェルの没個性論は、欧米人にとっては、むしろ説得力があったのかもしれません。近年、アメリカの人類学者デイヴィド・プラースは、こんなことを書いています(※4)。「日本人は個性に欠ける、あるいは西洋の基準からみて性格的に弱いと考えることは、西洋人にとって、おそらく非常に気持ちのよいことだったのであろう」(邦訳319頁)。
そうしたことも手伝ってか、『極東の魂』は、アメリカでは、かなり広く読まれたようです。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、アメリカでこの本を読んで感激し、日本への渡航を決意しました(※5)。ハーンは、友人に書き送った手紙のなかで、この本を「神の手になったような一冊だ」(39頁)とまで絶賛しています。
『極東の魂』には、戦後の日本人論でよく耳にした話がいくつも出てきます。
たとえば、「個我が共同体の精神に溶け込んでしまう」(邦訳35頁)という記述。ここで「個我」と訳されているのは、原文では「個人のアイデンティティー」(the identity of the individual)です。「個人性」(individuality)という言葉も「個我」と訳されています。日本人論には、耳慣れない「個我」という言葉がよく出てくるのですが、このあたりに由来しているのかもしれません。