歴史的な大人物とも楽しく自然に接することができたのは、その言葉のおかげだという。娘が見知らぬ大都会で周囲から愛される存在になってほしいとの親心から伝授した会話術だ。

「上京後、わずか3カ月での銀座デビューでした。しかも、ホステスとして働くのではなく、いきなりママという立場ですから、無鉄砲と指摘されてもしかたありません。でも、いま振り返ってみれば、何も知らないがゆえの強さがあった気がします」

クラブ 数寄屋橋は、最初から「文壇バー」と呼ばれていたわけではない。それは半世紀前の開店当日、壁のような威圧感を乗り越えた、あるできごとがきっかけだった。

有名作家や一流漫画家たちが居並ぶ文士劇が開催されることを偶然知り、開店の挨拶もかねて、お部屋見舞いに出向いた。楽屋内では独特の雰囲気に飲み込まれかけたが、俯いていると誰も自分に気づいてくれないと感じ、勇気を出して顔を上げた。すると、梶山季之氏をはじめとした文壇の重鎮たちが、声をかけてくれるようになった。

おしぼりとお茶の“心づくし”

「心に刻み込まれたのは漫画家の赤塚不二夫先生の言葉です。『きっと来年も来るんだろう? しっかりこの場を見ておくんだよ。何があって何がないかをね』と」

静香ママは言葉通り、部屋の隅々まで観察した。だが楽屋内には何でも揃っていて、新たに必要なものなど発見できない。ふと舞台袖に目を向けると、先生方が汗だくで熱演していることに気づく。静香ママは「これだ!」と思った。翌年、舞台の両袖に冷たいおしぼりとお茶、温かいおしぼりとお茶をそれぞれ置き、大好評を博した。

「開店当時から今日までずっと、自分なりの“心づくし”を追求し、オリジナリティーが出せるように工夫してきました。赤塚先生の言う『ここにはないもの』を考えることこそ、私流の気配りの技術です」

店があまりにも盛況で有頂天になりかけたこともある。娘の様子を見かねた母から「こんな娘に育てた覚えはなか!」と雷を落とされた。母の一喝が当時身についてしまっていた驕りを取り払ってくれた。それ以来、楽しく自然な生き方ができるようになり、経営スタイルすら変わったという。母の教えは世阿弥が『風姿花伝』で説く「秘すれば花」にもつながると考えている。

「あるお客様に『人生の成功で大事なのは、場、出会い、タイミングだ』と教わりました。それは自分を押し上げてくれる“風”に乗ることだと思います。大切なのは、風をつかまえられるように常に背伸びして、動き続けること。それがより高い位置で風を受け止める帆を張ることになると思います」

静香ママが、サムエル・ウルマンの詩「青春」を愛読している理由もそこにつながる。「燃える情熱があれば、何歳になっても青春。この仕事が天職で、いまでもお客さまにもときめく」と微笑む。半世紀以上にわたる政財界やスポーツ選手も含めた錚々たる人物との一期一会、ふれあいの積み重ねが、静香ママを磨いてきたといっていい。

▼静香ママおすすめの本
青春とは(サムエル・ウルマン、新井満訳 講談社)
松下幸之助氏をはじめ、戦後日本の財界のトップを中心に日本中に広がり愛されたサムエル・ウルマンの「Youth(青春)」を、芥川賞作家・新井満が、若い読者にもわかりやすくイメージしてもらうために、「自由訳」として新たに翻訳。
風姿花伝(世阿弥著 岩波文庫)
世阿弥が、父観阿弥の遺訓に基いて著した「能」の芸論書。「初心忘るべからず」「秘すれば花なり」など、数々の名言とともに、能楽の聖典として読み継がれてきた。一般に「花伝書」としても知られている。
土井晩翠詩集(佐藤春夫編 角川文庫)
瀧廉太郎の作曲による「荒城の月」でも知られる土井晩翠の詩集。代表作である第1詩集「天地有情」、第2詩集「暁鐘」から、第5詩集「天馬の道に」までの中から詩人佐藤春夫が60篇を選んだもの。