東京都江戸川区の西葛西駅の周辺には、在日インド人が集中して住んでいる。その様子は「リトル・インディア」と呼ばれるほどだが、なぜ西葛西だったのか。リトル・インディアの父は「1998年くらいまで、西葛西に暮らすインド人は4世帯だけでした」と振り返る――。

※本稿は、室橋裕和『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)の一部を再編集したものです。

「インド紅茶」を日本人に売り込んでいった

「リトル・インディアの父」こと、ジャグモハン・チャンドラニ氏が来日したのは、1978年だった。

野望は、日本でのインド紅茶の普及だった。

「当時から日本でも紅茶は飲まれていましたよ。でもイギリスの大手の品ばかりでした」

イギリスが植民地時代、インドの山岳部に茶のプランテーションを建設したことはよく知られた話だ。生産された茶葉はイギリスに持ち去られ、インド人が味わうことはなかったという。しかし独立後、茶は新生インドの主力商品として経済を支える存在へと成長していく。ダージリン、アッサム、ニルギリといった品種が世界的に注目されるようになる。

だが、日本に入ってくるのは遅かった。国内産業の保護を目的として、日本は紅茶の輸入を制限していたのだ。これが自由化されたのは1971年になってから。

「ようやく日本にも輸入できる時代が来ていました。なら、紅茶をやろう、と」

しかしそのとき、日本人は「紅茶といえばイギリス」というイメージしか持っていなかった。まず足がかりに、とさまざまなホテルに営業をかけたが、リプトン、トワイニング……どこも同じイギリス企業の紅茶を使っているのだった。

「で、あるなら、うちの紅茶をどう差別化して売り込むか。そう考えたんです」

チャンドラニさんは紅茶だけでなく、カフェやレストランそのものをプロデュースするアイデアを思いついた。紅茶に合った食器、テーブルクロスから、サーブの仕方まで提案した。豊富な茶葉を使って、どんな紅茶が日本人に好まれるのかアレンジしてアドバイスもした。

「そのうちに、じゃあ試してみようか、というところも出てくる。インドの紅茶は確かにおいしい、と認めてくれる日本人も増えてきたんです。これはイギリスのものとは違う、と」

少しずつ、確実に、紅茶の輸入量は増えていった。

チャンドラニさんが扱う豊富な紅茶のラインナップ(撮影=室橋裕和)

「西葛西駅」が建設される計画を知った

紅茶貿易が軌道に乗ってくると、どうしても必要なものが出てきた。倉庫だ。

都内各地を見て回った。しかし、なかなか「これ!」という場所が見つからない。

「ビジネスの中心は、大手町や茅場町、日本橋といったあたりでした。だから東西線の沿線だと都合がいい。そう思って調べていたんです」

そしてチャンドラニさんは、江戸川区の湾岸地帯に新しい駅ができることを聞いた。

「荒川を渡った葛西駅の手前です。ほとんど更地でしたよ。インド人どころか日本人だっていない。わずかな農家ではレンコンや小松菜を栽培していましたね。それから沿岸部では海苔の養殖」

チャンドラニさんにそう言われてはじめて知ったが、葛西にはかの「白子のり」の本社がある。海苔の養殖で有名な場所……つまり海だったのである。

戦後までは島が点在していたらしい。陸地部分も湿地帯が広がり、水害が絶えなかったという。ようやく開発がはじまったのは、実は近年のこと。1972年から着手された葛西沖開発事業によって、海の埋め立てが進んだ。いまではすっかり行楽地として定着した葛西臨海公園も、この計画に沿って建設されている。

フロンティアともいえるこのエリアには、京葉線や湾岸道路などの交通網が延びていく。東京臨海エリアが大きく動き出したのだ。その一環として、東西線に新しく西葛西駅が建設されることになった。