世界に類を見ないエンジンと機体の一貫生産

1923年、関東大震災が起こった年のこと、中島のライバルだった三菱が航空機エンジンの初の国産化に成功した。知久平はそのニュースに刺激され、豊多摩郡井荻上井草にエンジンを生産する東京工場を建設、自社生産に取り掛かった。

それまで中島飛行機は外国からエンジンを輸入し、機体に取り付けていたのだが、「日本人の手で日本の飛行機を作る」ためにはエンジンの国産化をどうしても実現しなくてはならなかった。ただ、日本では中島も三菱もエンジンと機体の両方を製造することをごく当然のこととして着手したが、世界的にはエンジン内製はむしろ少数派だったのである。

例えばヨーロッパではエンジンメーカーと機体のメーカーは分かれていた。前者にはロールス・ロイス、ダイムラー、BMWがあり、後者がメッサーシュミット、スーパーマリンといった会社である。現在でもボーイングやエアバスの機体にロールス・ロイスやプラット・アンド・ホイットニーのエンジンが搭載されているのは何もおかしなことではない。日本の航空機産業のひとつの特徴がエンジンと機体の一貫生産にあった。

草創期における中島飛行機や三菱、川崎における機体製造の状況だが、1920年、もっとも多く製造した中島でさえ年間に17機だった。ひと月に一機もしくは二機という勘定になる。それはひとつひとつの機体を工場に据え付け、図面に合わせて職工が組み立てる手作りの生産方式だったからだ。

当初は木製の骨組みでスタートした飛行機だったが、1914年にできたドイツのユンカースF13以後は全金属製が主流になる。日本では中島飛行機が作った九一式戦闘機(1931年制式採用)がその嚆矢(こうし)である。

堀越二郎と並ぶ航空機設計の“天才”

昭和に改元された翌1927年に中島飛行機のその後を決定付けるふたりの技術者がフランスからやってきた。

連れてきたのは知久平の弟、乙未平(きみへい)だった。彼はフランスに6年間、留学していたことがあり、その時に勉強していた戦闘機メーカーのニューポール社からアンドレ・マリー、助手のロバンというふたりの技師を招いたのである。

「マリーさんとロバンのふたりが中島飛行機の設計者に伝えたのは人命尊重主義、つまり安全でした」

そう教えてくれたのはスバルのヴァイス・プレジデント、若井洋だ。

「日本で本格的な戦闘機開発が始まったのは昭和に入ってからでした。中島飛行機はフランスのニューポール社からトップデザイナーのマリー技師を呼び、一方、三菱、川崎はドイツから技師を招聘(しょうへい)し、陸軍、海軍の戦闘機開発を進めたのです。フランスとドイツでは戦闘機の設計思想がやや違います。中島飛行機はフランス風の飛行機設計をするようになりました」

アンドレ・マリーから直接、教わったのは同社のエース技師、小山悌(やすし)だった。小山は東北大学工学部機械科を出て中島飛行機に入社した男で、ゼロ戦を設計した堀越二郎と並ぶ航空機設計の天才と呼ばれた逸材だった。