百田さんも、今回の僕との一連のやり取り(正確には維新の足立康史衆議院議員とのやり取り)の中で、「自分のファンや支持者からは罵倒されながら、維新をあえて応援してきた」と吐露している。

僕と百田さんの間にはそういう関係があったので、激しくツイッター上で論争している中でも、侮辱にならないように相互に微調整をしていたと思う。

確かに百田さんは、ツイッターで暴言を吐きっぱなしのときもある。たぶん、それはその人との今後の関係性などまったく考えていないのだろう。

僕も、そういうときもある。僕は自分が侮辱されたときには、その人とは今後も建設的な議論などできないだろうという思いで、100倍返しでその人を侮辱する。

しかし、今回の僕と百田さんとの論争においては、相互に微調整をしていた。

そうは言っても、僕と百田さんの性格と言葉遣いである。もちろん相互に計算はしているにせよ、一瞬ヒートアップして、激烈な言葉を放つこともあった。

ただし、そこは侮辱になって、ちょっとまずかったかな、と思ったところは、軌道修正した。そしてまた激しく論争する。その繰り返しだった。

最終的に主張が平行線で終わったことは冒頭のとおりである。しかし、この靖國論争は無意味にはならなかったと僕は認識している。

百田さんの考えは、靖國を巡る見解の、柱的なものであることに間違いがなく、僕の見解は現在少数派の、ある意味チャレンジ的な見解だ。

ゆえに僕のような見解に対して、百田さんのような考えの人が、どこに疑問を持ち、どこに反感を持つのか。どこが問題点なのか。百田さんのような考え方の人と、考え方が別れるのは、どのような考えの違いに基づくのか、つまり考え方の分岐点はどこなのか。僕のような見解を広めようと思えば、どの点に留意しなければならないのか。

このようなことを、今回の論争で僕はしっかりと得ることができた。そして、ツイッター上で論争することによって、ツイッターをやっている人の目に触れることになった。