「子どもは自分のもの」という所有意識

まず、①「子どもは自分のもの」という所有意識は、子どもを虐待する親の多くに認められる。最も暴力的な形で表れるのが身体的虐待だ。

たとえば、2019年1月、千葉県野田市で当時小学4年生だった栗原心愛(みあ)さんが自宅の浴室で死亡した事件で逮捕され、傷害致死罪で起訴された父親の勇一郎被告である。

勇一郎被告は、心愛さんの両腕をつかんで体を引きずり、顔を浴室の床に打ち付け、胸や顔を圧迫するなどの暴行を加え、顔面打撲や骨折を負わせた。それだけでなく、心愛さんの手に汚物を持たせ、その様子をスマートフォンやデジカメで撮影していたという。

どうして実の娘にこんなひどいことができるのかと首をかしげたくなるが、わが子を虐待する親の話を聞くと、皮肉なことに、実の子だからできるのだということがわかる。子どもを自分の所有物とみなしているからこそ、自分の好きなように扱ってもいいと思い込む。

実際、子どもに身体的虐待を加える親が、「自分の子どもをどうしつけようが、俺の勝手だ」「子どもを殴るかどうか、他人にとやかく言われる筋合いはない」などと話すことは少なくない。自分の子どもは虐待してもかまわないという思い込みの根底には、しばしば強い所有意識が潜んでいる。

こうした所有意識は、教育虐待をする親にも認められる。「子どもは自分のもの」という所有意識ゆえに、子どもに勉強させるために厳しく叱責するのも、暴力を振るうのも、自分の勝手だと思い込むわけである。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/tomazl)

子どもは「自分をよく見せるための付属物」という認識

教育虐待をする親にとくに強いのが、②子どもは「自分をよく見せるための付属物」という認識だ。

この認識が強い親にとって、子どもは、自分の価値を底上げしてくれるバッグや宝石などと同等の存在にすぎない。そのため、成績がよく、先生にも気に入られ、友達にも好かれ、習い事でもほめられる“パーフェクト・チャイルド”であることを常に求める。さらに、「いい大学」「いい会社」に入り、隣近所や親戚に自慢できるようなエリートコースを歩んでくれるよう願う。

その役割を子どもがきちんと果たしてくれれば、親の自己愛は満たされるが、逆に子どもが「自分をよく見せるための付属物」でなくなれば、親の自己愛は傷つく。だから、成績の低下や受験の失敗などに直面すると、親は怒り、罵倒する。

しかも、子どもが「自分をよく見せるための付属物」としての役割を果たしてくれなかったせいで、自分が恥をかいたと親は思っている。当然、恥をかいた自分は被害者で、その原因をつくった子どもは加害者という認識であり、加害者である子どもを責めてもいいと考える。こうして、子どもを責め、罵倒することを正当化する。