「歴史学科の落第生」すら呆れた『日本国紀』
そんな「歴史学科の落第生」であった、この私ですら、百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎)は、本棚に所蔵しておくことが恥ずかしくなるぐらいの駄本である。いま、私の目の前には『日本国紀』の第五版があるが、この原稿を書くためにいやいやながら購入した書籍であり、この執筆が終われば、毎週木曜日の燃えるゴミの日の廃棄物として千葉県松戸市指定のビニール袋に投擲するであろう。
しかし、この自称「日本史の通史本」――500頁超を費やしているのに巻末にただの一冊の参考文献も記載していない――はベストセラーになっている。
恥を忍んで私は「歴史学科の落第生」と告白したが、その落第生が読んでも、『日本国紀』は高校3年生からようやく「歴史学科以外の」大学学部生(1年生)の基礎教養水準に達するか達さないかの水準であり、ましてこの本から「日本の通史」を読み解くことは不可能である。
卑しくも、7年かかってでも、歴史学科を卒業した身としては、『日本国紀』を本棚に飾ることについてはわが人生の沽券にかかわるので、上記通りの最終処分(焼却)とする。その一方で、体系的な日本史を学んでいない、または学ぶ機会や意思がないネット右翼の大部分が、この百田による『日本国紀』に群がる原因を、私は手に取るように理解することができるのである。
右派論客が描く「通史本(自称)」が存在しなかった
『日本国紀』の商業的大ヒットの理由は、これまであまたのネット右翼を対象にして構築されてきた「トンデモ歴史本」「俗流歴史本」が、虫食い状に各時代について焦点を当ててきたのに終始し、ついぞ「日本史の通史(自称)」というものを俯瞰して描く右派論客がこれまで居なかった、という点に尽きる。
つまりネット右翼に対して、特定の時代・時期に偏重しない、右派論客が描く「通史本(自称)」は、商業的にはブルーオーシャン(競合他者がいない世界)であった、というわけだ。
以下の図は、日本史の中でネット右翼が好発して関心を寄せる時代をクローズアップしたものである。