「結婚に消極的な姿勢は一貫していた」
ハーバード大学を出て東大法学部に入った小和田雅子さんが、国家公務員試験に受かり、中退して外務省入りしたのは24歳の時だった。
父親は外交官で、旧ソ連でも過ごしたからロシア語も堪能だそうだ。皇太子・浩宮に誘われて御所で何度か会ったようだが、「陛下に好意は抱いていたようだが、『やりたいことがあって外務省に入ったのだから』と結婚に消極的な姿勢は一貫していた」と、当時親しく付き合っていた斎藤智子記者が朝日新聞デジタル(5月1日12時00分)に書いている。
この頃、プロポーズまで発展しなかったのは、彼女の祖父が水俣病を出したチッソの社長・会長を歴任したことがあり、宮内庁の中からだろう、反対の声があったという。
その後、イギリスのオックスフォード大学に留学したが、皇太子妃候補ということで留学先まで記者たちが追いかけてきた。
だが、浩宮の熱い思いに打たれ、92年に雅子さんが結婚を承諾したのである。
結婚8年でやっと授かったのは「女の子」だった
婚約会見で、「皇太子殿下からプロポーズにあたり『雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします』といわれたと、彼女が明かした。
その言葉にウソはなかった。しかし、皇太子妃になった雅子妃を待ち受けていたのは、あまりにも苛烈な日々であった。
宮内庁職員からの厳しい言葉もあったのだろう。だが彼女を一番苦しめたのは子どもをつくれ、男の子を産めというプレッシャーであったことは間違いない。
結婚して8年、やっと授かった子どもは女の子であった。周囲は素直に喜んではくれず、彼女は深く傷ついた。
その頃、宮内庁の人間から秋篠宮紀子さんに、男の子を産んでくださいという話があったといわれている。
幸福感に満ちあふれていたはずの愛子さんの誕生会見の席で、「私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」といいながら、絶句した雅子妃に、そっと手を差し伸べられた皇太子の姿が忘れられない。