ときには、会員から資金を集めることも

座談会(少人数が集まって信仰について話し合う場)の場合には、最小の組織である「ブロック」やその上の「地区」を単位として開かれ、会員の自宅が使われることがほとんどである。それとは別に、地区よりも単位として大きい「支部」などの会合もおこなわれる。本部幹部会の衛星中継を視聴するには大きな会場である会館が必要で、それは全国に約1200あるとされる。

そうした会館を建てるには建設資金が必要である。また、日蓮正宗と良好な関係が保たれていた時代には、大石寺に建物を寄進したり、日蓮正宗の寺院を各地に建立したりした。そのためにも資金が必要だった。そうしたときには、「ご供養」や「特別財務」という形で資金集めがおこなわれた。

ほかに、創価学会における資金集めの手段としては「財務」がある。現在の財務は、1年に1度年末におこなわれ、会員1人が1万円を収めることになっている。

二代目会長が政界への進出を企てた

『聖教新聞』と並んで創価学会を語るうえで欠かせないのが、「公明党」の存在である。

創価学会二代目会長の戸田城聖は、1954年11月、組織のなかに文化部というセクションを設け、政界に進出する。文化部の部員が立候補したわけである。最初は都議会や区議会、市議会などの地方議会で、当選者は全部で53名だった。

この時点では、公明党は誕生していなかった。したがって、なかには、すでに存在している政党から立候補する者もいた。あるいは無所属での立候補だった。

翌1956年7月の参議院選挙では、6名が立候補し、全国区で2名、大阪地方区で1名が当選した。得票数は99万票で、次の59年の参議院選挙ではそれを248万票にまで伸ばした。議席も倍の6議席を獲得する。

その後、1961年には、文化部は公明政治連盟に発展し、64年には公明党が結成された。67年には衆議院選挙にも候補者を立て、公明党は25議席を獲得し、一躍野党第三党に踊り出る。第一党は日本社会党、第二党は民主社会党である。

公明党が多くの議席を獲得したことで、ほかの政党には脅威を与え、それが創価学会や公明党に対する批判にも結びついていくことになる。