なぜ学習院大学を中退して、国際基督教大学に進んだのか

『文春』の全体のトーンは、それほど厳しいものではない。学習院初等科の時にはフィギュアスケートに熱心に取り組み、小5の時には東京都スケート連盟主催の「スプリングトロフィー・フィギュアスケート競技大会」で優勝したことなどを紹介している。

佳子さんは学習院大学に通っていたのに中退して、姉の通っている国際基督教大学のAO入試を受験し、合格している。

その際、学習院側は、子どもの教育に関心を寄せていた佳子さんのために、小学校教員を養成する教育学科の開設を前倒しして環境を整えていたのにと、ガッカリしたという。

そこから秋篠宮家の教育方針についての批判につながるのである。

「もし眞子さまが学習院大学に進学されていたら、横のつながりも緊密ですから、小室家の借金トラブルのような何らかの問題が入ってきやすいのは間違いない」(皇室ジャーナリスト)

ICUで学び、「二度とない人生をいかに生きるのか」と考えた

私は、そうした考えには与しない。ICUに入ったからこそ、佳子さんのように、皇族である前に一人の人間として考えるという精神が養われたと思うからである。

ICUのウェブサイトには、日比谷潤子学長の挨拶文「生きることの課題を求めて」が掲示されている。そこにはこうある。

本学初代学長の湯浅八郎(1890─1981)は、『欽定英訳聖書』(King James Version)の「幻なければ民ほろぶ(Where there is no vision, the people perish.)」(「箴言」第29章第18節)を、「人間としての生きがい、団体としての理想実現を考える場合に大切な標語」と考え、「我々は一人一人、皆一度あって二度ない人生をおくっているのでありますが、どのような幻をもって生きているのか。我々の生きがいはどこにあるのか。これが第一義的な生きることの課題ではないでしょうか」と問いかけました(『若者に幻を』国際基督教大学同窓会、1981年、34─35頁)。私たちは、献学当時から今日まで60年間にわたって、本学に関わりを持った無数の人々の祈りに応えるべく、日々、生きることの課題に真摯に取り組んでいます。

二度とない人生をいかに生きるのか。そう考えれば、おのずと姉の結婚問題も、前述したような結論になるはずである。

『文春』は皇室ジャーナリストの山下晋司にこう言わせている。

「皇族は『国民とともに歩む』存在であり、ご結婚には公的な側面が絡んでくるのも事実です。例えば、結婚に伴なって国庫から一億円以上の『一時金』が支給されます。佳子内親王殿下は、そのことについてはどのようなお考えなのか、気になりました」

小さいことを気にするものだ。佳子さんなら、それだったら私はもらいません、そう言うに違いない。「俺たちの税金を小室圭なんかにやりたくない」などと、多くの国民が思うだろうか。それに結婚は庶民にとっても公なものである。皇室だけが特別ではない。