暴力を受けないために「順応」「従属」する

そんな中で暴力を少しでも受けないようにしようと思うと、ともかく相手の言い分を我慢して受けとめたり、その場は相手に合わせるように順応したりするようになる。さらに恐怖が進むと、自ら生活スタイルを変えて、加害者が気に入るように従属する人も出てくる。私はこれを相手との相互作用の中で生じてくる心理的な被害として、「コミュニケーション被害」と名付けている。

実のところ被害者の多くは、加害者との間で、自身のコミュニケーションを変化させることによってDVをうまく回避できる経験もするが、回避しきれずに暴力を受けてしまう体験もしている。

結局のところ暴力は0にならないので、確実性のない回避方略であることは皆わかっている。ところが被害者の中には、それを自分の努力が足りなかった、相手の心の機微を受けとめ最悪の事態を避けるために何とかすることができなかった、と受け止める人がかなりの数いるのだ。

今回の事件の母親も、きっと、子どもや自分に向かう父親の暴力を最小限にするコミュニケーション上の努力をしていただろうと私は推測する。この文脈でなら、母親は子どもへの虐待を黙認し幇助していたのでなく、むしろ最悪の事態を避けるため、必死で加害者の動きを読もうとしていたことになる。けれど読み切れなくて、子どもが死んでしまうという結果になった。彼女の一連の言葉は、その意味での「私が悪い」ではなかったのだろうか。

母親の「生存戦略」だったのではないか

最後に、私は、この母親が逮捕された時から、逮捕に踏み切った警察の判断も含めて、私たち(一般の人たち)が彼女にどのような感情を向けているのかがずっと気になっている。なぜ私たちは、「子どもを守れたはずなのに守れなかったのか、矛先が自分に向かわぬよう保身をしたのか」と、彼女を責めたくなる衝動に駆られるのだろうか。これが3つ目の論点だ。

報道によれば、千葉県警は、事件当時の母親は「暴力の支配下にはなかった」として、詳しい経緯を調べている。もし仮に、それが「その期間、母親は暴力を振るわれていなかった」という意味だとしたら、あまりにDV被害への理解がなさすぎると言わざるを得ない。

先に述べた通り、DV被害者は一度でも暴力を振るわれると、加害者との間のコミュニケーションを変化させ、再度暴力を受けることのないように努力しがちである。その努力が奏効して、たまたま暴力を振るわれなかったからといって、だからDVが解決していることにはならない。被害者が加害者の意向(暴行を黙認し幇助する)に沿っていたことは自発的な行動ではあるけれど、そんなことをせざるを得なかったのは、加害者との間に圧倒的な立場の差があったからだ。加害者と被害者は、その意味で対等な関係性ではなかった。

圧倒的な立場の差を感じる環境下で、いかに自分と子どものダメージを減らすかが最優先課題である時、時に自らが虐待加害者のように子どもに振る舞ってしまったとしても、それは力のない母親の生存戦略の一つではなかったか。