親密な相手だからこそ逃げ出す判断ができなくなる

DV加害者といえども、四六時中暴力を振るう人はそういない。彼らが暴力を振るっていない時は、はた目にはそんな問題があると気が付かないほど、親密で幸せなコミュニケーションも成立している。そして暴力は、何かをきっかけにして、そのコミュニケーションの延長上に起こってくるのだ。

殴ったり蹴ったりひどいことを言ったりしてくる相手が、親密で特別な関係性の人物であるが故に、被害者は戸惑いつつもすぐに逃げ出す判断がつかない。「なぜこんなに怒っているのだ?」「自分の何がそうさせたのだ?」と考えて、その関係性やコミュニケーションにあえて踏みとどまってしまう。

このような思考が悪循環を起こすと、暴力を受けないように逃げ出そうとするのではなくて、暴力を受けないように自分なりの対処方法を考えることに必死になる。つまりDV被害者が逃げないのは、暴力を振るわれてもいいと思っている訳ではなく、また逃げるための能力を失っているのでもなくて、“逃げる”という選択肢が選べない方向に思考のベクトルが固まってしまっているからである。暴力を受けないようにしようとして、かえって暴力を受ける可能性のある状況から逃れられなくなってしまうのだ。

そうであるなら、DV被害者にそのことを説明し、自身の思考の偏りに気がついてもらいさえすれば、この問題は一気に解決しそうなものである。だが物事はそう単純ではない。次に説明する、暴力に起因するコミュニケーション上の被害にはまり身動きが取れない、という人もいるのだ。

「私が悪い」とDV被害者が語る理由

事件に戻ろう。どう考えても一番悪いのは、DVと虐待を引き起こした父親である。母親は子どもをかばおうとして暴力を振るわれたこともあったようだから、「子どもを助けてあげたかったけど父親がどうにもならなくて助けられなかった」というような申し開きをする方が、実際に近くかつ自然であろう。にもかかわらず、彼女は「私が助けてあげられなかったから悪い」と自身に原因を帰属させ、まるで子どもが死んだ責任も自分にあるかのように語っている。それはなぜか。これが2つ目の論点である。

どんな感情に裏打ちされた行為であっても、行動の責任はそれを行った人に帰属する。これは極めてシンプルな一般常識である。いくら腹に据えかねることがあっても、相手に危害を加えたら、それは暴行や傷害という自分の罪になるはずだ。だが時として関係性が親密である時、その基本が揺らぐ。DV被害者の話を聞いていると、暴力を奇妙に正当化する加害者が非常に多いことに気付かされる。それは「私は暴力を振るいたくはないのだが、あなたが怒らせることばかりするから悪いのだ」という理屈である。

つまり加害行動の責任を、被害者側が取らされるのである。このような加害者の言い分に、被害者たちは納得している訳ではないが、反発すれば余計にひどく暴力を振るわれるリスクが高まる。もちろん暴力を振るわれることは、誰もが避けたいことだ。これ以上暴力を振るわれたくないと思えば思うほど、その恐怖と相まって、被害者の心情は何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってくるという。