何が書かれ、何が書かれていないか

たとえば、2000年7月に沖縄で先進国によるサミットが開かれた。その際の先進7カ国(G7)首脳による「世界経済に関する宣言」は日本について次のように述べている。当時、筆者はすでに退官していたので、その文書の関係者による作成過程やその表現が選ばれた背景について承知しているわけではない。

日本では、不確実性も依然として残っているものの、経済は景気回復への前向きな兆しを引き続き示しており、マクロ経済政策は、内需主導の成長を確かなものとするよう引き続き支援的なものとすべきである。構造改革は、潜在生産力の向上を促進するために継続されるべきである。

この文章は、わが国が採るべき経済政策について2つのことを言っている、第1に、マクロ経済政策は引き続き支援的(景気を支えるという意味)であるべきである。それは、現在のわが国のマクロ経済政策が支援的であるという認識の上に立っている。これが「引き続き」という意味である。第2に、構造改革を進めるべきである。これも現在すでに構造改革が進められつつあるという認識の上に立っている。これは、「継続されるべき」という表現からわかる。

また、この文章は、わが国経済の現状についてもいくつかの判断を示している。その第1は、わが国の経済について不確実性が残っているということである。その第2は、「景気回復への前向きな兆しを引き続き示している」ということである。「景気回復」を示していることではなく、それへの「前向きな兆し」が示されているに過ぎないとされている。

文書の作成者たちは表現方法についていろいろ議論し、やはりわが国の景気回復の強さはその程度の弱いものだと認識した上でこういう表現に落ち着いたのであろう。そしてこの「兆し」は何も今回新たに生じたものではなく、それは前から存在したものだとの認識である。それが「引き続き示しており」の意味である。

「書かれていないこと」の意味を読む

文章に書かれていることのほか、書かれていないことも重要である。たとえば、「マクロ経済政策は支援的なものとすべきだ」としつつも、どういう手段によってそうすべきかを示していない。金利の引き下げや流動性の追加といった金融政策によるべきか、補正予算の編成や来年度の当初予算による格別の配慮といった財政政策によるべきか、 あるいはその双方によるべきかは書かれていない。そこまで議論されなかったのかもしれない。議論はされたが具体的なことについては書かないと合意されたのかもしれない。

いずれにしても書かれていないのはそれ相応の理由があるに違いない。その理由は何か。

こういうことを読みとり、書かれていないことに思いを巡らしうるためには、自ら厳密かつ正確な文章を書き、あるいは書くべく努力をしていなければならない。