「役人の文章」といえば、抽象的で分かりづらいというイメージがある。だが34年間財務官僚を務めた久保田勇夫氏は「日本だけでなく、サミットでやりとりをした国々の官僚も、『役人の文章』を書く。つまり文章の表現にきわめて厳格なのだ。抽象的にみえる文章も、しっかり読み込むと正確に書かれていることがわかるはずだ」と説く――。

※本稿は久保田勇夫『新装版 役人道入門 組織人のためのメソッド』(中公新書ラクレ)の一部を、抜粋・再編集したものです。

洋の東西を問わず、役人は文章の表現にきわめて厳格で、文章が大切だというコンセンサスがある――久保田氏が各国の高級官僚と共にサミット宣言の原案作成に参加した、1986年の東京サミットの一場面(写真=AFP/時事通信フォト)

「ふさわしい表現」はただ1つしかない

正確な文章を書くことは役人の基本である。世に、抽象的でわかりづらい文章を「役人の文章のようだ」とけなす傾向があり、役人の無責任さと役人の文章とを結びつける雰囲気がある。あたかも文章の作成に熱意を注ぐことが無駄であるかのごとく、かえって有害だとする向きもある。

これらはすべて誤りである。古今東西を問わず、正確な文章を書くこと、その文の示される時期、相手方、環境に応じた文書をつくることは役人の基本である。役人たるもの、優れた役人たらんとするものは、すべからく作文修業に心血を注ぐべきである。

特に留意すべきは、ある事項を説明するときに、それに最もふさわしい表現はただ1つであるということであり、それぞれの状況において最も適切な文書はただ1つであるということである。作文修業は、いわばこの唯一のものを求めていくプロセスである。

作文修業は、単に良い文章を書くためのものではない。それは、同時に、他人の書いた文章や相手方から示された文書を正確に理解するためのものでもある。どうやって正確かつ適切な文章にしようかと苦吟した者でなければ、自らに示された文章を正確に理解することは困難である。たとえ先方が微妙なニュアンスを伴ったものを示してきても、自らあれかこれかと苦吟したことのない者は、その文書が何を言い、何を否定しているのかを読みとることはできない。