寛容さの欠如がさまざまな「バッシング」を生む

乙武さんの話や「新潮45」を廃刊に追い込んだ記事の問題だけではない。

内戦下のシリアで武装勢力によって身柄を拘束され、3年4カ月ぶりに解放されたフリージャーナリストの安田純平さん(44)に対しても、解放直後から「自己責任で何とかすべきだった」「殺されても文句は言えない」という非難の声がネット上で目立った。一方的に自己責任論を持ち出して批判する。寛容さの欠如がそうしたバッシングを生むのだ。

一昨年7月、神奈川県相模原市の障害施設「津久井やまゆり園」で施設の男性職員が計19人を殺害した悲惨な事件の背景にも、差別的な思考や寛容性の欠如といった問題が横たわっている。

話も聞かずに最初から「問題だ」と決めてかかる。バランス感覚がなく、物事を並べて考えようとしない。寛容さが失われているのだ。

どうしてこうまで寛容さが失われてしまったのだろうか。「数の力に頼る安倍政権の横暴さに似ている」と書いたが、「似ている」というよりも、むしろ安倍政権が原因なのだと思う。寛容さを喪失した社会は、安倍政権の負の落とし子だ。

「議論をないがしろ」「国会を下請け機関」

こんなことを考えながら最近の新聞社説を読み返してみると、12月11日付の朝日新聞が「国会の空洞化が加速 政権の暴走が止まらない」との見出しを立てて大きな1本社説を書いていた。

その朝日社説はこう書き出す。

「巨大与党に支えられた安倍政権の横暴がまた繰り返された」
「自民党総裁選で3選された安倍首相が初めて臨んだ臨時国会が閉幕した。従来にもまして議論をないがしろにし、国会を下請け機関のように扱う政権の独善的な体質が際だった」

「議論をないがしろ」「国会を下請け機関」と朝日社説は批判するが、その通りである。この臨時国会ほど安倍政権の横暴さが際立った国会はなかった。憲政史上、希に見る国会だった。

なかでも外国人労働者の受け入れを拡大する改正出入国管理法は、初めから結論ありきで、安倍政権は野党や世論、マスコミの反対意見に聞く耳を持たなかった。要するに寛容さに欠けるのである。

朝日社説も「より幅広い国民的合意が求められるにもかかわらず、政府・与党は野党の理解を得る努力を、はなから放棄していたというほかない」と糾弾する。