東京オリンピック前後に産まれた「カルピス世代」

【山川】遊牧の生活は変わりつつあるなか、ぼくは三島が旅した当時と同じ製法の乳製品を食べることができた。本当に運がよかった。

牛の乳を搾るモンゴルの女性(撮影=山川徹)

【星野】実は、この本を読んで、あっと気づいたことがあるんです。私は、「カルピス世代」だったんだな、と。

【山川】なんですか、そのカルピス世代って!?

【星野】昭和36年~昭和42年に生まれた世代です。東京オリンピック(1964年)前後に産まれた人たちで、バブル世代にも重なります。

【山川】星野さんの世代ということですか。

【星野】そうです。私の幼少期、つまり大阪万博(1970年)の頃ですが、カルピス、ヤクルト、森永のマミー、明治のパイゲンCという乳酸菌飲料があり、壮絶な戦いが繰り広げられていました。カルピスの発売は1919年ですよね。それ以降を調べてみると、ヤクルトのシロタ菌が発見されたのは1930年で、ヤクルトレディが63年に活動をはじめます。そして森永マミーが1965年に、さらには明治パイゲンCが1967年に発売を開始します。熾烈な「乳酸菌戦争」が勃発しました。

【山川】その戦争は見落としていました(笑)。どんな戦いだったのでしょう。

熾烈な「乳酸菌戦争」の主戦場は銭湯だった

【星野】主戦場は銭湯。お風呂から上がった子どもたちは、森永マミーや明治のパイゲンC、あるいはフルーツ牛乳を飲むのを楽しみにしていました。400年前の宣教師たちが、キリスト教の布教のためにはまずは子どもを取り込むことを重視したように、各種飲料メーカーも子どもを取り込もうとしたのでしょう。ちょうど東京オリンピックが開催されて、国民の健康、体力増進が図られた。飲料メーカーが乳酸菌飲料のシェアを競っていたんです。

【山川】東京オリンピックのとき、86歳の三島は、まだ社長で「全世界の人にカルピスを知ってほしい」「カルピスは身体にいいのだからたくさんの人に飲んでほしい」と全選手村に無料で配りました。三島の命で、オリンピックの担当になったカルピス社のOBも、いまは80歳を過ぎています。三島は彼らに「白のカルピスは、黒のコカコーラに勝つんだ」と語っていたそうです。

【星野】すでに発売から50年の歴史を持つカルピスは、その乳酸菌戦争に巻き込まれず、大船に乗ってオリンピックで海外に向けて宣伝していたわけですね。

【山川】子どもに向けた宣伝と言えば、カルピス社がスポンサーとなった「カルピス名作劇場」の公開もこのころ。1969年からですね。

【星野】『ムーミン』『ハイジ』『フランダースの犬』『母をたずねて三千里』『あらいぐまラスカル』という良質なアニメを世に送り出したわけでしょう。宮崎駿をはじめ、のちに日本を代表することになるトップクリエイターが子どもに向けに良質なアニメを、と集結した。私たちはカルピスを飲みながら「カルピス名作劇場」を見ていたわけです。だからもう、「カルピス世代」としか言いようがない。

【山川】ぼくはすべて再放送で見た世代です。なんだか遅れて生まれてきて悔しい気もしてきました(苦笑)。