なぜ45歳係長は逮捕されてしまったのか

ここで僕は改めて、吹雪の荒れ狂う真っ白な世界を直視した。ここまでは計画通りだ。次は……何とか生還しないとな。ここ、マジでどこなんだろう。ちょっと遠くまで来すぎちゃったか。うう、寒い。なんだか眠くなってきちゃったぞ。

信じ難いことだが……あの兵略を成功させた後も、僕と高音さんの仲は一ミリも進展しなかった。というか、むしろ僕を見る眼差しに軽蔑の色が混じり始めた。雪中行軍の最中、いの一番に失神してしまったせいだろうか。

おまけに崖下に蹴り落とした伊集院が単身で生還しやがった。なんて奴だ。ゴキブリ並みの生命力だ。今は都内の病院に入院しており、高音さんは毎日のようにお見舞いに行っている。

伊集院の入院は長引いており、このままならクビもありうる。それ自体は大変めでたいことだが、困ったことに高音さんが、「私も一緒に辞める」「退院したら一緒にパパの会社を手伝いましょう」などと提案しているらしい。高音さんの実家はちょっとした会社を経営しているのだ。おいおい、名実ともに家族ぐるみの付き合いってか。困ったな。

なぜ高音さんはそれほどまで伊集院に入れ込んでいるのか。浮気疑惑、会社をクビ、全身複雑骨折、ここまで重なってなお伊集院を愛し続けるなど尋常なことではない。奴はどんな卑怯な手で高音さんの心を奪ったのか。

調べてみると、すぐに答えが分かった。仕事上のミスをして落ち込んでいた高音さんを、伊集院のアホタレが優しく慰めた。それがきっかけだったのだ。ぬう、なんと卑怯な。弱っているところを狙うなどと。……いや、だが、これは孫子のルール、その八。「鋭気を避けて、その惰帰を撃つ」だ。敵が万全の状態の時に真正面から攻めるのは馬鹿だ。相手が弱り、動揺している時にこそ攻めるべきなのだ。

なるほど、伊集院の奴も孫子を応用してやがったか。これは絶対に負けられないな。ということは、僕も高音さんを弱らせれば良いわけだ。

何かないか? 僕は孫子をめくった。高音さんを弱らせる最適な戦術を探して……。そして! 僕はその答えを孫子に見出したのだ!

「そんな! 燃えてる! パパの……パパの会社が燃えてる!」

轟々と燃え上がる社屋の前で、高音さんが愕然として両膝を付いた。高音父の会社は紅蓮の炎に包まれ、消防車、救急車が甲高いサイレン音を辺りに響かせていた。

その光景を陰で見つめながら僕はニヤリと笑った。孫子のルール、その九。「火攻めを用うべし」。孫子の「火攻篇」には火攻めの方法やタイミングなどの教えが書かれているのだ。

うわははは、これで伊集院の再就職先は灰燼(かいじん)に帰した。高音さんも絶望のドン底に落ちた。これで高音さんは僕のものだ! 全ては孫子の教え通り! ありがとう、孫子! うわははは、うわーっはははは!

翌日、山田たかしは放火容疑により逮捕された。現在、余罪を追及中である。孫子を実践したはずなのに何が悪かったのか。最後に山田が読み逃していた孫子の一節を挙げておこう。孫子のルール、その十。「利に非ざれば動かず」。作戦を成功させても、そこから確実な利益を引き出せなければ事実上の失敗である。むしろ圧倒的優位なルックスなどを背景に、奇策を弄せず、山田の土俵に一度も上がろうとしなかった伊集院こそ、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(戦わずに勝つのが最善の策)であり、孫子の真の実践者であったのだ。

架神恭介(かがみ・きょうすけ)
作家
1980年、広島県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。『戦闘破壊学園ダンゲロス』で小説家デビュー。『完全教祖マニュアル』『よいこの君主論』など著書多数。
(写真=iStock.com)
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