なぜ植松被告を断罪するだけではダメなのか
2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、死者19人、重軽傷26人という戦後最悪の殺傷事件が起きた。事件を起こした植松聖(さとし)被告(施設の元職員)は、犯行前に衆議院議長に宛てて「障害者は不幸を作ることしかできません」、「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」と手紙を書いていた。
事件後メディアがこの事実を報道すると、植松被告に批判的な意見ばかりではなく、犯行への賛同や、障害者の存在価値を疑問視する声も少なからず聞こえてきた。ネット上の掲示版などのほか、NHKが設けたサイトにも、「私も犯人側に近い考え方です」などと、犯行の背景にある思考に同調する書き込みが複数寄せられた。これは、特殊な考え方をする一部の人々が極論を書きこんだだけ、と片付けられるものだろうか。
植松被告は、「意思疎通のできない障害者を養うほど、今の日本に経済的な余裕はない」とも主張している。実は、このような考え方は新しいものではない。しばしば指摘されるように、ナチス・ドイツを率いたヒトラーは、施設や医療機関で暮らす障害者や精神疾患の患者などを殺害する「安楽死計画」を実行に移した。障害者や精神疾患の患者たちを「社会にとって価値がない」と見なし、20万人以上の命を奪った。
「役に立たない者を排除する」という歪んだ考え
植松被告が意識していたかどうかは別として、こうした考え方の源流を探っていくと、19世紀後半から20世紀にかけて勃興した「優生学」にたどり着く。遺伝学的な改良によって人為的な淘汰を推し進め、人類の肉体的・精神的な進歩を促そうとする思想である。
命に優劣をつけ、「役に立たない者を排除する」ことが社会の進歩を促すという歪んだ考えは、時代や国家の枠組みを超えて、しばしば人間社会の表舞台にその姿を現すことがある。だとすれば、植松被告を断罪したとしても根本的な解決にはならないということだ。その背後に潜む集合的な意識をあぶり出し、自分たち自身の問題として考えなければならない。