表面化し始めた「排除の論理」
もともと私たちの社会は競争原理に裏付けられた一種の排除の論理を内包している。「成果主義」「能力主義」「経済効率優先」「費用対効果」、さらには「自己責任」論まで。生き残り競争を前提とした企業社会のなかで形作られた考え方は、濃淡はあるものの広くビジネスパーソンに共有されている。
問題は、直接ビジネスとは関係のない、人々の生き方や日々の暮らしの場面にも同じ思考法を当てはめようとする人々が増えているのではないか、という疑念をぬぐえないという点である。
自分で暮らしを成り立たせる能力を完全に奪われている重度障害者。彼らの多くは誰かの介助なしには生きていけない。植松被告は事件後2年を経てなお、接見した記者たちに「意思疎通のできない人間は生きる価値がない」などと同じ主張を繰り返している。
だが、人間の「価値」とは何か。ある人間が社会のなかで何かの役に立つとか価値があるということに関して、誰がどのような基準で判断を下すのだろう。そもそも、そのような基準を設けることなどできるのだろうか。
あなた自身が「明日、障害者になる」可能性を考える
「意思疎通のできない障害者を養うほど、今の日本に経済的な余裕はない」と植松被告は繰り返す。だが、この考えを推し進めると、その先には空恐ろしい未来が待ち受けている。「意思疎通のできない障害者」の部分は、いとも簡単に別の「社会的弱者」に置き換えられるからだ。
そして、人は誰でも知力財力の有無にかかわらず、明日にでも「社会的弱者」になる可能性を秘めている。「生産性のない者」になるリスクからまったく自由な人間などいない。「意思疎通のできない障害者を排除せよ」と主張する人間は、自分が社会的弱者になる可能性を想像できているのだろうか。