クルマにのって道路に出ると、路上のルールに組み込まれる

せっかくなので、すこしだけ内容をご紹介したい。わたしたちがなにかにしばられているといったとき、いちばん強力なのはインフラだ。たとえば、車にのって道路にでたとする。すると瞬時にして、自分の身体が路上のルールにくみこまれてしまう。もうなにも考えずに、体がかってにうごくのだ。

アクセルをふんではしらせて、赤、青、黄色と信号の色に反応する。法定速度よりもちょっととばして、ほどよく車間距離をたもってはしり、ビュンビュンはしっていると、なんだかとってもきもちいい。快適だ。で、たまにトロトロはしっている車にでくわすと、むやみやたらとムカついてしまう。クラクションをならして、てめえ、ちんたらはしってんじゃねえぞとさけんではしる。

ちなみに、事故で渋滞したりすると、さらにイライラがとまらなくなる。なに事故ってんだよとか、意味不明なことをがなりたてるのだ。これ、ほんとうはおかしいのってわかるだろうか。だって、ひとが死んでいるのだから。ふつうだったら悲しいだけだ。もちろん統計がとられて、事故がおおいところでは防止策として、ちかくに見通しのよい道路がつくられたりするのだが、これは死者を悼んでとか、そういうことじゃない。市民のイライラ解消のためである。

「障害物は駆除してわすれろ」という感覚になる

げんきんなものであたらしい道路をはしりはじめると、みんなスムーズな交通に酔いしれる。ああ、なんて自由なんだ、なんて解放的なんだと。道路の目的というのは、物流でも通勤でも、目的地までのひとのながれを最速化することだとおもうのだが、それがすすめばすすむほど、ひとがひととしての感覚をうしなってしまう。よりよい交通を、よりよいインフラを。そのためだったら、障害物は駆除してわすれろ。たとえ、それが人間であったとしても。

フランスの思想家集団、不可視委員会は、それをこんなふうにいっている。

権力はいまやこの世界のインフラのうちに存在する。現代の権力は非人称的で建築的な性質のものであって、代理表象的でも人称的でもない。伝統的な権力は代理表象的な性質をそなえていた。法王は地上のキリストを、王は神を表象していたし、大統領は人民を、党書記長はプロレタリアを表象していた。かかる人称的な政治のすべてが終わったのである。(不可視委員会『われわれの友へ』<HAPAX訳、夜光社、2016年>83頁)

インフラの便利さに飼いならされてしまうと、気づけば、目的のためにスピーディーにことが運ぶことになれてしまう。逆にいうと、それをさまたげるものがいたら、たとえひとがなにかトラブルにまきこまれて困っているようなことであっても、ふざけんじゃねえ、はやくそんな障害は排除しろ、はやく、はやくとおもってしまうのだ。