教育活動の意義ばかりを熱心に説いても意味がない

学校の管理下で子どもに対して意図的に提供される各種活動は、基本的にすべてが「教育」である。授業はもちろんのこと、遠足も、学校祭も、そして給食を残さず最後まで食べきることも、炎天下のグラウンドで野球をすることも、トイレの便器を手袋なしで磨くことも、立派な教育活動である。

「教育」とは、「望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動」(『広辞苑』(第六版))である。望ましい知識・技能・規範を提供するという設計なのだから、学校や教師が計画する各種活動に、無意味なことは一つもない。

校則を設けたりそれを運用したりすることもまた、その意味で、何らかの望ましさを具現化することが期待されている。地毛証明書の提出も、下着の色のチェックも、それをやっている学校や教師の目線からすれば、それがきっと子どもたちにとってよいことなのだと信じられている。だからこそほとんどすべての学校に校則があり、今日に至るまでそれが維持されているのである。

すべての教育活動に、それなりの意義がある。したがって、教育活動に付随する問題を論じようとするとき、その活動の意義を熱心に説くことはそもそもあまり意味がない。

学校でそれがおこなわれている限り、何らかの意義があるのは当然のこと。「意義があるのは、わかった。でも、いまはそれが引き起こす問題のほうを直視しましょう」――これが、学校で起こる問題、特に校則について語るときの重要な姿勢である。

暴風雨のなかコンビニに行くか、行かないか

教育活動に付随する諸問題を、私は「学校リスク」と総称している。子どもが教室で授業を受けることから、手袋なしで便器を掃除することまで、そこにどのようなリスクがあるのか。教育的意義の語りをいったん止めて、その活動のリスクを洗い出すのである。

リスク研究の分野では、「リスク」を検証する際にはその対になる言葉として「ベネフィット」が措定されている。

たとえば、暴風雨のなかでコンビニに行こうとすれば、欲しいものが手に入るかもしれないが、途中で転倒したり身体がびしょぬれになったりする危険性がある。手に入れたいというベネフィットを重視する(=コンビニに行く)か、びしょぬれになってしまうというリスクを重視する(=コンビニには行かない)か。

私たちはつねに、リスクとベネフィットを天秤にかけながら生活を送っている。このリスクとベネフィットの両面を考慮することが、リスク研究の基本的な着眼点である。