※本稿は、齋藤孝『不機嫌は罪である』(角川新書)の第1章「もはや不機嫌は許されない」を加筆し再編集したものです。
不機嫌はなぜ許されなくなったのか
現代日本では、不機嫌な個人が多大な損をこうむる傾向が強まっています。これには二つの大きな要因があります。
一つは、私たちの社会が「快適に暮らしたい」という快楽欲求をつねに追求しているから。
日本は現在、世界随一の良質なサービスを提供する国として知られています。人々はどんな店でも、物や労務だけにお金を払うのではなくサービスの良さを判断対象に入れるようになりました。それにあわせて物や労務を売る側もそれぞれのサービスに磨きをかけています。すると、スタッフの不機嫌も許されなくなってきます。
丁寧なサービスというのは、今までホテルや百貨店などそれ相応の代金を払った場所で提供されるものでした。しかし一流ホテルの接客に近いものが、今ではコーヒー一杯200円レベルのカフェチェーンのアルバイトにすら要求されるようになっているような状態になっています。店員の機嫌が悪いところはどんどん淘汰されているのです。
これはサービス業だけに限りません。今はどんな会社の社員であっても、取引先や部下に対する不機嫌が世間に伝達されてしまうということが現実に起こっています。本人に直接言わずSNSで言うことがありえる。むしろ、そうした例のほうが目立つようになっているようにも思います。
各個人が快楽を求めあった結果、各人が働く側にまわったときにはその要求に対応しないといけないという状況です。現代は、とかく不機嫌に厳しい時代なのです。
とりわけ若い人たちが「傷つきやすくなった」
そしてもう一つ現代において重要なのが、とりわけ若い人たちが「傷つきやすくなった」ということです。核家族化が進んで大人からきつい言葉を言われることが少なくなったことがあるのか、誰かの不機嫌を感知するとすぐに萎縮してしまうという人が増えているように感じています。
相手が不機嫌さに傷つく度合いが高くなっているぶん、不機嫌の罪が重くなってきているのです。
そうやって圧倒的な不機嫌パワーに支配されずに育った人が増えていること自体は健全なことです。しかし傷つきやすさには難点もあります。
たとえばこちらとしては、相手の間違いを止めるためについ情報伝達手段として不機嫌を利用するときもあるでしょう。それなのに相手が必要以上に重く受け止めてしまうことが少なくありません。取引先で交渉に不利になる情報を部下が明かしそうになったときに、「君!」とむっとした顔をするというような「方便」が、うまくいかないということです。