狭い社会で暮らす、人間は「おかし」な存在

【丹羽】龍馬は脱藩して、資金もない中で、どうやってあのように活動できたのでしょう。

【河合】資金の部分では、まず裕福な実家からの援助もあり、勝の弟子になったことで、彼からも得ていたはずです。のちに結成する亀山社中(後の海援隊)という組織は、薩摩藩や土佐藩から給料をもらって活動資金にしたんです。龍馬の直筆の書状は140通ほど現存していて、そこからは興味深い人物像も窺えるんです。それ以外にも、多くの人が龍馬についての証言を残しています。たとえば、同じ海援隊士の関義臣が「龍馬は相手の話を黙って聴き、さんざん人に喋らせてから自説を述べた。誠に天真の愛嬌家であった」と評しています。“聞き上手”は西郷にも共通していて、そういうところが人を惹きつけたと思います。

【丹羽】薩長同盟も、龍馬の功績といわれますね。亀山社中は日本最初の商社ともいわれますが、やはり龍馬の外交力や仲介役としての能力は非凡なものがあった?

【河合】薩摩と長州に手を組ませれば、幕府にも対抗でき、幕府の独裁も終わらせることができる、当時そう考えていた人は少なくありませんでした。でも、実際に仲介に動き始めてすぐに「無理だ」とやめてしまった。それほど両藩の仲は悪かった。けれど龍馬は違いました。薩摩と長州に出向いて多くの藩士を説得、ついに西郷に「自ら長州へ出向いて桂小五郎と会う」という約束を取り付けたのです。ところが西郷はドタキャン。当然、長州側は怒りました。しかし龍馬はあきらめず、桂を説得して京都で両藩の会見を実現させ、さらに彼らを叱咤して薩長同盟を結ばせたのです。そこまでする人はいませんよね。簡単に諦めないしぶとさ、だから龍馬は偉業を達成できたのです。

「人間というものは、牡蛹殻(いようかく)の中に棲んでいるものであるわい。おかし、おかし」。これは、京都の近江屋で暗殺される半年前、龍馬が国元の姉に宛てた手紙の一節です。人が狭い社会で暮らし、広い世界に目を向けようとしないのを笑っているのです。龍馬がこう言えたのは、脱藩したことで藩という枠組みを突き抜け、広い視点からモノを見ることができたからなのです。

慶應2年12月4日、龍馬が土佐の姉・乙女宛に出したその一年の出来事を知らせる手紙(京都国立博物館所蔵)。(AFLO=写真)

【丹羽】西郷と勝が談判して、江戸無血開城(※)をやりましたね。当初の目的では江戸城を攻め落とそうとして来ていたんですが、勝が命を懸けて談判に来た。無血開城で戦いを避けられるなら、そのほうがいいと思って決めたわけでしょう。もちろん反対した人もいたと思いますが、それでも西郷に表立って反発する人はいませんでしたね。誰もやろうとしない大きな目的があって、手段は変わったけれども西郷と勝というリーダーがいたからこそ、無血開城は成し遂げられたのでしょう。

彼らに共通しているのは、自分だけが生き残ろうとか、そういう考えを捨てていた。志士といわれる人はみんな死を覚悟して動いていたと思います。薩長同盟にしても、西郷と勝の談判にしても、いつ斬られるかわからない状況で、お互いに現場へ乗り込んでいったわけでしょう。

【河合】そういう覚悟が芽生えたのは、幕末のような国難があったからでもありますが、やはり幼少期からの教育が欠かせないように思えます。

※西郷と勝が会談により江戸城の新政府への明け渡しを決めたこと。