2 西郷と龍馬の意外な共通点

中国「朱子学」より、物事の道理を学ぶ

【河合】丹羽さんが、最も幕末で注目しておられる人物は誰ですか?

【丹羽】西郷です。松陰とは違うタイプの指導者で、背中で語る人物といいますか。その生き方を見て、若い人たちが心酔していたように思えます。彼の言葉に「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」というものがありますね。西郷自身にもそういうところがあった。権力者から扱いにくいと思われるような人間だからこそ、改革者になりえたと思います。河合先生は、西郷の魅力はどこだと思いますか?

【河合】イギリスの外交官アーネスト・サトウが、「その瞳は黒いダイヤモンドのように輝いていた」と西郷を表現しています。彼自体が大きな一個の要石みたいな存在だったと思います。薩摩の武士は寡黙でしたが、西郷はとくにそうでした。徹底的に聞き役に回ったそうです。大きな身体で正座しながら相手の話を熱心に聞き入る西郷。ときには話を聞いて涙を流したといいます。すると「あの西郷さんが、自分の話を聞いてくれた」というので、若者たちはみんな心酔してしまうのです。

【丹羽】西郷は、子どもの頃に喧嘩をして腕を怪我して、刀がうまく使えなくなった。それで剣術をあきらめ、考えを変えて勉強に打ち込んだそうですね。とくに打ち込んだのが、中国で12世紀に書かれた『近思録』という朱子学の入門書。書物を通して物事の道理や人の心の根本とは何かを学んだ。その経験が西郷の活躍の下地をつくったのは間違いないと思うんです。

【河合】そうですね。薩摩には郷中(ごじゅう)教育といって、近隣区域に住む少年たちが集団をつくり、そこで自治教育を行う独自の教育制度がありました。そこで重視されたのは、知識や武芸はもちろんですが、仲間同士の団結や長幼の順守、主君のために命を捨てる覚悟や礼節といった「生身」の人間教育です。西郷も大久保も、この郷中教育の中で揉まれて己を磨きました。そうして成長した西郷は、藩に対して政治改革に対する意見書を出し、それが藩主の目にとまって抜擢されました。

【丹羽】藩主は島津斉彬ですね。この人も傑物でした。下っ端の西郷や大久保を取り立て、江戸へ連れていって庭方役にして、いつでも話ができるようにした。斉彬が亡くなった後、西郷は次に藩政を握った島津久光(斉彬の弟で12代藩主・忠義の父)に嫌われて島流しにされます。普通ならそれで終わりですが、大久保の口利きで呼び戻されて現場復帰する。流刑時代にも島民たちに慕われて、いろいろと助けられています。ああいう西郷の人を惹きつける力は、どうやって培われたんでしょうか。

【河合】幕末は国家存続の危機でした。だから身分序列を超越し、有能な下級武士を抜擢して藩政に参画させる必要が出てきたのです。松陰、西郷、大久保、龍馬はみんな下級武士ですが、彼らが活躍できた背景には、そうした時勢が関係しているのです。なかでも龍馬は、不利なフリーランス=脱藩浪士として活動しました。西郷や大久保はずっと薩摩藩士のままでしたが、龍馬は28歳のときに土佐を脱藩して、死ぬまでの5年間、新国家の下地をつくるために奔走しました。そんな龍馬の幸福は、勝海舟という良師を得たことです。勝が龍馬に天下の名士を紹介し、蒸気船の操縦を教え、鍛え上げていったのです。勝は若者に活躍の場を与えるのに熱心でした。若いときにどんな師や上司に会うかも人生を左右するカギですね。