このステージは、谷村にとって、「音楽は国境を越える。音楽で何かを変えることができる」という、音楽が持つ力を身をもって知る貴重な体験となった。しかし、その同じ日の夜、その後の音楽人生にかかわる、衝撃的な出来事が谷村を待ち構えていた。それは、通訳を務めた青年の一言だったという。

「その青年に『なぜ、日本の方たちは、いつも大陸に背を向けているんですか』と、怒りとも悲しみともつかぬ顔で聞かれましてね。初めは何を言ってるのかと思っていましたが、ハッと気付いたんです。当時、太平洋側を表日本、日本海側を裏日本と言ってましたよね。その呼び名の通り、あのころの日本は太平洋側から伝わってくるアメリカの文化や情報だけを、一辺倒で受け入れていた。アジアの中にあって、日本だけはアジアじゃないみたいな意識があったと思うんです。その考えはすごく危ないな。不遜だなと……。青年の言った言葉が胸に刺さって離れなくなってしまったんです」

「2004年に上海で、義兄弟が20年ぶりにコンサートを開催して、うちの学生(上海音楽院)を招待しました。僕が最後に『昴』を歌ったら、生徒が『先生がお作りになったんですか』って驚いているの。若い人たちはこの歌を、中国の歌だと思っているんです。それだけ歌われているのかと思うと、うれしかったな」

「2004年に上海で、義兄弟が20年ぶりにコンサートを開催して、うちの学生(上海音楽院)を招待しました。僕が最後に『昴』を歌ったら、生徒が『先生がお作りになったんですか』って驚いているの。若い人たちはこの歌を、中国の歌だと思っているんです。それだけ歌われているのかと思うと、うれしかったな」

そのコンサートの2カ月後、アリスは後楽園球場のコンサートを最後に活動を休止した。ソロシンガーとなった谷村は、レコーディング、コンサート、ディナーショーと、精力的に活動する一方で、アジアに向かって目をこらし、手探りでアジア進出の道を探し始めた。それはいつしか「アジアの仲間を募って一緒に語り、歌いたい」という“夢”になっていった。

3年後、その夢は韓国からチョー・ヨンピル、香港からアラン・タムを迎え、後楽園球場でのコンサート「パックス・ムジカ’84」で実現する。

「僕と同じ思いのアジアのシンガーを探していたら、出会ったのがこの2人。アラン・タムの発案で、僕たちは三国志を気取って義兄弟の契りを結んだんです(笑)。今後3人の中で、誰かが世界に出ていくチャンスが生まれたら、他の2人は踏み台になる。僕らがダメなら次の世代の礎になろうと約束したんです」

義兄弟でスタートしたこのコンサートは、その後、香港、韓国など、アジアの各地を回り、それぞれの国のトップアーチストも参加して10年続いた。その一方で、頭を痛めたのが経済的な問題だった。