コマツの常務執行役員、日置政克氏は、同社では、働きがいよりも、「居甲斐」を追求しているとおっしゃっているが、成長の可能性は、働く人が感じる大切な価値であろう。特に長い間働いてもらうことを前提とした場合、どこまで成長できるかの可能性の認知が、有能な人材がその企業を選択し続けるための大きなポイントとなる。
ここまで書くとおわかりだろうが、何のことはない。ここにある内容は、普通の人材マネジメントなのである。特別なことはなにもない。本来、いわば人を活用するために必要なことをきちんとすること=働きがいの提供、そういう方程式が成り立つのかもしれない。今、多くの企業で働きがいがないとすれば、本来の人材マネジメントがなされていないのかもしれない。
ここまでの議論を要約すれば、働きやすさは仕事と職場の再設計を通じて確保し、また働きがいは、正統派の人材マネジメントを通じて確保するということだ。
ただ、この結論に一つだけ注をつけておきたい。それは、おうおうにして、働きがいにしても、働きやすさにしても、企業から従業員に与えられるもののように思われることについてである。確かに、企業や経営者の役割は重要だが、働きがいや働きやすさは、本来決して、与えられるものではない。働きがいや働きやすさの確保は、企業側や現場リーダーだけの責任ではない。働き手の参加がなければ、とても難しいのである。
やや文学的に聞こえるかもしれないが、働きやすさも働きがいも、結局は、働く側と働いてもらう側でつくりこんで獲得するものなのである。何らかのシステムを準備すれば、またリーダーが何らかのアクションを取れば、それで働きがいや働きやすさが成立するのではない。参加するメンバーが経営とともにつくりこんでいく過程があって、初めて存在するものなのである。
この過程では、働く人もパートナーなのである。働く人は、自分が何を求めるのかを考え、企業に伝えていく必要がある。特に今、働く人の多様性(ダイバーシティ)が高まり、多様な個性が企業で働くようになるにしたがって、企業として働く人のニーズを把握するのは難しくなっている。経営と働く側の相互コミュニケーションが重要なのだ。
このつくりこみは、他の経営現象と同様に、終わりのない戦いかもしれない。それほど、働きやすさと働きがいはうつろいやすい経営資源なのである。でも、私は、企業のためにも、働く人のためにも、そうした努力を強化する時期に来ている気がするのである。