こうした構図を踏まえるならば、平昌五輪を機に「金正恩の北朝鮮」が「文在寅の韓国」や「習近平の中国」、さらには「ウラジーミル・V・プーチンのロシア」を巻き込む体裁で、「ドナルド・J・トランプの米国」からの風圧を避けようという動きを盛んに繰り広げたとしても、それは、結局のところは、「第二地域」の輪の中の動きなのである。
特に中朝関係を直截(ちょくさい)に論評するならば、「第二地域」の専制国家の首領同士が手を握ったところで、「第一地域」の日本が右往左往する筋合いの話ではない。それこそが、「日本は蚊帳の外に置かれている」と嘆いてみせる類の評が無益である所以(ゆえん)である。
来る米朝首脳会談において、仮にドナルド・J・トランプ(米国大統領)が金正恩との「没価値的な妥協」に踏み切り、他の「西方世界」諸国も揃って対朝宥和(ゆうわ)に走る事態が現実のものとなった場合は、日本にも焦慮すべき理由が出て来るかもしれない。しかし、目下のところは、そのような動きの兆候は伝わってこない。
むしろ、国務長官職をレックス・ティラーソンからマイク・ポンペイオに、そして国家安全保障担当大統領補佐官職をハーバート・R・マクマスターからジョン・R・ボルトンにそれぞれ代えたトランプの判断は、彼の対朝姿勢が一層、峻厳なものになることを予期させる。米朝首脳会談は、最初から何らかの「妥協」を模索するというよりも、米国が「完全、検証可能、かつ不可逆的な方法で、北朝鮮の核・ミサイル開発を放棄させる」という、自らの意向を突き付ける場になるのではなかろうか。
「第一地域」同士の協調と提携こそ日本の自然な選択
こうした観察に従えば、自由、民主主義、人権、法の支配といった近代の価値意識を基盤となし、梅棹の言葉にある「第一地域」に位置する日本にとっては、「西欧」文明圏域の国々やその後嗣(こうし)としての米加豪各国、すなわち「西方世界」諸国との協調と提携は、まことに自然な選択であるといえる。
北朝鮮の核・ミサイル開発はもちろん、中国の海洋進出、ロシアのクリミア併合やソールズベリー事件への関与といった、現下の国際政治を揺るがす事象の多くは、「専制と服従」に彩られる「第二地域」から「自由と民主主義」を旨とする「第一地域」に対して仕掛けられた挑戦であると解せられる。日本を含む「西方世界」諸国は、その挑戦を受けて立つべきである。
もっとも、その「西方世界」は今、覆い隠しようのない「内なる動揺」を抱えている。『論語』(季氏第十六)に曰く、「吾れ恐る、季孫の憂いはセン臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在らんことを」(編集部注:「心配なのは、将来のリスクが外部にではなく、身内の中に存在するのではないかということだ」)である。日本や「西方世界」諸国にとっての目下の最たる問題は、自らの信条や価値意識の如何であるといえる。