西郷は別府晋介に介錯され、果てた。これが世に伝わる西郷の最期だが、遺体に首がなかったことで、やがて「西郷生存説」が唱えられはじめる。実際、10月27日付読売新聞には「尾張名古屋周辺では、西郷が死んだと云ふ新聞は虚だ、今にまた土州へ首を出すの、船で四国へ逃げたのだとか、中には再び出る出ないの賭をする者も有る様子」と書かれていた。
さらに、西郷の死から14年後の1891年にはまたも生存説が再燃。今度はなんと、西郷はシベリアでロシア兵と訓練に明け暮れていて、後日、ロシア皇太子と共に日本へ戻ってくるという話だった。実はこの時代、ロシアはシベリアや朝鮮半島に触手を伸ばしており、当然ながら、日本も仮想敵国としてロシアを重要視していた。このような情勢下、日本とロシアが手を結ぶ際のキーパーソンとして西郷が選ばれたのかもしれない。
西郷死後、残された家族はどうなったか?
これまで述べてきたように、謎めいた部分を多く残して世を去った西郷隆盛だが、彼の妻や子どもはその後、どうなったのだろうか?
西郷はその人生において、なんと3度も結婚している。最初の結婚は、同郷である伊集院兼寛の妹・俊子が相手だったが、結婚生活は1年ほどで破たん、子どももいなかった。
2度目の結婚は西郷が奄美大島へ流されたとき。島の娘・愛加那(愛子)と結ばれ、菊次郎と菊子(菊草)の一男一女が生まれた。西郷が島に潜伏していたのは32歳の頃とされるが、当時西郷は「菊池源吾」と名乗っていたため、子の名前に「菊」という字を付けたのだろう。
そして3度目の結婚相手は、薩摩藩家老・岩山八郎太の娘・イトで、彼女とのあいだに寅太郎、午次郎、酉三という3人の子をもうけている。
以上、西郷の実子5人のうちもっとも出世したのは長男・菊次郎であった。米国留学ののち、宮内省、台湾総督府を経て、1904年より6年間、第2代の京都市長として辣腕を振るい、琵琶湖第2疏水の開削、発電・水道事業、京都市立絵画専門学校の開設などにも尽力している。
ちなみに、その後の西郷家を継いだのは寅太郎の三男・吉之助で、彼は1936年に貴族院議員となり、後年、参議院議員にも当選している。吉之助は祖父である西郷隆盛によく似た風貌と堂々とした体躯の持ち主だったことから、地元では非常に高い人気を誇っていたという。
珍談奇談の類から、学術的に検証された知識まで、種々雑多な話題をわかりやすい形で世に発表する集団。江戸時代に編まれた『耳袋』のごとく、はたまた松浦静山の『甲子夜話』のごとく、あらゆるジャンルを網羅すべく日々情報収集に取り組む傍ら、最近ではテレビ番組とのコラボレーションも行った。