『魔女の宅急便』、『おもひでぽろぽろ』への強烈なアンサー
戦災孤児の女の子が味わった困難は、この作品において最もリアルでグロテスクに描写されます。
女の子は母親と暮らしていたのだけど、戦争が起こって2人で逃げ出します。母親は原爆の爆風を受けて右手がちぎれ、全身にガラスの破片がささって、ただれた状態になってがれきに腰を下ろすけれど、すぐに死んじゃうんですね。女の子は母親の左手にずっとしがみついたままですが、母親の体はどんどん腐ってハエもたかってくる。女の子も何とかハエを追い払おうとしていたんだけど、母親の首がごとんと落ちたところで逃げ出してしまいます。
広島の駅前ですずと夫の周作が話をしている時、すずはうっかり海苔むすびを落としてしまい、これを女の子が拾います。不思議なことに、女の子はこの海苔むすびをすずに返そうとするんですよ。戦災孤児ですから、今日1日を生きるのも大変なはずなのに。
その女の子がすずに海苔むすびを渡すと、すずは笑ってその女の子に「あんたがお食べ」と海苔むすびを返し、女の子はそれからすずの右腕をずーっとつかんで離しません。
すずは困ったねえという顔をほんのちょっとだけしてから、女の子を呉の自宅へ連れて帰る。そして、新しい家族が増えたというところで、物語は終わります。
右手を失ったからこそ、周りの人と向き合えた
僕には、これが高畑勲の『おもひでぽろぽろ』や、宮崎駿の『魔女の宅急便』へのアンサーになっているように見えるんです。カギとなるのは、すずの右手です。
映画の最初から、すずはお兄ちゃんのことをマンガに描いたり、美しい海を描いたりしています。彼女の右手が何を表しているか? それは、『魔女の宅急便』のキキの魔法と同じなんですよ。ほかの女の子と違う個性であったり、自分のなかの純粋さや子供っぽさの象徴です。
宮崎駿作品では、そういう魔法にこだわり、残すことが大事なんだと主張しています。
でも、そんな魔法の右手を理不尽に奪われてしまったすずは、日常をきちんと生きることで、まわりの人との関わりを取り戻すんです。
もし、すずにずっと右手があったら、彼女はしょっちゅう絵を描いて現実逃避をしていたでしょう。右手を失ったからこそ、彼女はきちんと周りの人と向き合えたし、最後に戦災孤児の女の子を連れてくることができました。途中、すずは自分の右手を失うと同時に、義理のお姉さんの娘も失いますが、それらも取り戻す話になっているんですよね。
その点は、高畑勲の『おもひでぽろぽろ』とも大きく違います。『おもひでぽろぽろ』は、言ってみれば田舎に帰れというようなメッセージを出していたのですが、『この世界の片隅に』はまったく異なる文法を使って日常を取り戻しました。
映画やアニメは残酷です。たった1本の『この世界の片隅に』という作品は、それまでの作品を過去のものにしてしまった。『この世界の片隅に』はアニメーションの最前線で日夜表現に挑んでいる人には、大変なショックを与えたことでしょう。