*本稿は鳥居りんこ『親の介護をはじめたらお金の話で泣き見てばかり』(ダイヤモンド・ビッグ社)の第4章「介護で折れまくる心編」に著者が加筆したものです。
なぜ子供の世話はできても、親の介護はしたくないのか
昨年、10年以上にわたる親の介護を終えた。そして今、こう思っている。
「できれば、やりたくなかった……」
自分を育てた親に対してどうしてそんな心ない言葉を発することができるのか。そう思われるかもしれない。しかし、「やりたくなかった」という思いは揺るぎない。
なぜならば、疲れたのだ。心底疲れた。
「親の介護」は、子供から「気力」「体力」「お金」という人生の3大要素を容赦なく搾取していくのだ。しかも、搾取される期限がいつまでか誰にもわからないために、このまま自分の人生が親の介護で終わってしまうような感覚に陥ってしまう。実際はそんなことはないのかもしれないが、そう感じてしまう。
もちろん、個人の感想である。親のことが大好きで、その恩義に報い、忠義を尽くす。そんな人として素晴らしい行為を全うできた方から見れば、私は親不孝者の代表だろう。
▼「頼むから、今日、死んで(でないと私が死んじゃう!)」
正直に言えば、昨年、亡くなった実母の最晩年には私は毎日、こう思っていた。
「頼むから、今日、死んでくれ(じゃないと、私が死んじゃう!)」
こうした愚痴は、親族などに伝わることもあり、こう言われつづけた。
「この罰当たり!」
「言霊ってあるから、あなたに災いが降りかかるよ!」
「誰もが通る道でしょ?」
「明けない夜はない」
「大事に育ててもらったんでしょ?」
「こんなに進行するなんて、(そばで)何をしてたの?」
「あなたならできる!」
ただ、こうした非難の締めくくりには、よくこう言われた。
「お母さんを頼むね」
「お母さんを大事にしてあげてね」