目の輝きを失った大学時代の友人たち

【田原】じゃ、活動は成功だ。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【小沼】いや、それが怒られてしまって。配属先に調査結果を自信満々にプレゼンしたら、「あなたは環境教育のために呼んだ。期待と違う」。「プロジェクトの設計を間違えたのはそっちだ」と文句をいいましたが、通じません。そのままでは自宅待機になるので、自分でシリアのさまざまな機関を回って環境教育の仕事を探しました。結局、3つの小学校で環境教育を継続的に行うプロジェクトを自分で立ち上げました。日本に帰国したのは、その1年後です。

【田原】帰国後はマッキンゼーに入社します。これはどうして?

【小沼】もともとビジネスと国際協力は別ものだと考えていました。大学でマルクス経済学を教わって、むしろビジネスに悪いイメージを抱いていたくらい。ところが、シリアで僕の上司になったのはドイツ人のコンサルタントで、その人はビジネスの力でマイクロファイナンスのプロジェクトをよりよいものにしていった。その姿を見て、自分もビジネスの世界に身を置いて、社会貢献と世界をつなげたくなりました。

【田原】なぜマッキンゼーだったんですか?

【小沼】その上司から、「ビジネスを学ぶならコンサルタントがいい。日本ならマッキンゼーかボスコン(BCG)」とアドバイスをもらいました。両方受けましたが、ボスコンは書類選考で落ちて、たまたま受かったマッキンゼーにお世話になることにしました。

【田原】マッキンゼーにいるときに、仲間たちを集めて勉強会を始めたそうですね。経緯を教えてください。

【小沼】日本に帰ってきてまず驚いたのが、就職した友人たちの目が輝いていないように見えたことでした。もともとみんな熱いやつらだったんです。でも、帰国して僕がシリアで経験したことや社会貢献の大切さを語ると、「そんな話をしていると、日本の会社では浮いてしまうぞ。早く大人になれ」という。僕の目には、彼らよりシリアの人たちのほうがエネルギーに満ちて幸せそうに見えました。ただ、そういう僕も会社で働くうちに熱さを失ってドライな大人になっていくかもしれない。それが嫌だったので、まだ目が輝いている友人たちと月1回飲む会をつくりました。それがきっかけです。

【田原】最初は何人で始めたんですか。

【小沼】4人です。この熱さに耐えられる人をそれぞれ連れてこようという話になって、飲み会が10人になり、20人になり。人数が増えたところで、「コンパスポイント」と名前をつけて、きちんとした勉強会にしました。いまも会は続いています。

【田原】マッキンゼーは3年でお辞めになった。どうしてですか。

【小沼】自分がやりたかったのはビジネスと社会貢献の世界をつなぐこと。それができるキャリアをつくることが目的でしたから、最初から3年で辞めると決めていました。