崖っぷち足立区の挑戦
実は、日本でも大胆な「健康格差」対策で成果をあげている地域がある。東京都足立区だ。足立区では区を挙げた取り組みで、重い糖尿病患者の割合を減らし、同様の悩みを抱えている他の自治体からも注目を集めている。
足立区が「健康格差」対策に取り組むきっかけとなった衝撃的なデータがある。それは、足立区民の健康寿命は、男女とも東京都の平均より約2歳も短いというものだ。東京都平均の健康寿命は全国平均とほぼ同じなので、足立区民は全国平均より2歳も健康寿命が短いことになる。健康寿命とは「健康問題で日常活動が制限されずに生活できる期間」をさすが、荒川と中川に挟まれた庶民的なこの地域で、なぜ「健康格差」が生まれてしまったのか。
第1章でも説明したとおり「健康格差」を生む背景には、「雇用形態」や「所得」の格差が横たわっている。実際、足立区民の平均年収は東京23区で最も低い335万円となっていて、就学援助率は37%と全国平均の2.4倍に達している。足立区が区立小学校に在籍するすべての小学1年生とその保護者を対象に行った調査によると、
(2)生活必需品の非所有(子どもの生活において必要と思われる物品や5万円以上の貯金がない等)
(3)支払い困難経験あり(過去1年間に経済的理由でライフラインの支払いができなかった)
のいずれか一つに該当する「生活困難」の世帯が、4229世帯中1047世帯、率にして24.8%と、ほぼ4件に1件が生活困難世帯になっていることがわかった。
さらに調査では生活困難世帯の子どもは、それ以外の世帯に比べ、虫歯が5本以上ある割合が2倍。お菓子を自由に食べ、運動の習慣がほとんどない肥満傾向も目立つことや、親も重度の不安・抑うつ傾向があり、家族全体が健康問題を抱えていることもわかった。
所得や雇用の格差問題については、行政の努力だけでは解決することはできないが、健康状態は行政の努力で改善できる範囲として、足立区では2001年頃から生活習慣病対策に本格的に乗り出した。特に、家庭においては親の健康状態や生活習慣が悪いことが、そのまま子どもに影響する「不健康の連鎖」が起きる可能性がある。親が精神的・肉体的に追い詰められれば、子どもの学力も育たない。足立区では、これまで治安や学力、貧困と対策を打ってきたが、それらすべての根本問題となっている「健康格差」問題に本格的に取り組もうと踏み込んだのである。
政策を実行する「アクションプラン」制定にあたって、過去10年間の足立区民の健康状態や意識調査を精査すると、次のような問題点が浮かびあがってきたという。
▼糖尿病の1人当たりの医療費が23区で最も多い。
▼糖尿病の腎透析に至る割合が特別区・東京都を上回っている。
▼健康無関心層が少なからず存在し、糖尿病が重症化するまで放置する傾向がある。
(足立区糖尿病対策アクションプランより引用)
以上の分析から、足立区では今後10年間、糖尿病対策に絞って集中的な対策をとることにした。
糖尿病は、高血圧や腎不全など多くの合併症を引き起こすだけでなく、腎不全などが重症化すると、人工透析など高額な治療が必要になる。また、就労不能になった低所得者層の多くは生活保護を受けざるを得なくなり、区が財政的な援助を続けることになる。また、若いときに重い糖尿病になってしまうと、将来にわたって発生する医療や介護費用も膨大になる。区民の糖尿病の悪化を放置しておけば、区の財政が将来的に逼迫するのは必至の状況だ。糖尿病対策は足立区にとって「待ったなし」の重点課題になった。
当初、足立区では国が提唱した施策に則(のっと)って、生活習慣病を対象にしたさまざまな対策を講じたが、総花的だったため、区民の健康状態はさほど改善しなかった。たとえば、糖尿病の予備群と思われる中高年を対象に、健診の呼びかけや生活指導などの対策を行ったが、効果はあまり上がらなかった。足立区・こころとからだの健康づくり課課長の馬場優子(ばば・ゆうこ)さんは、こう打ち明ける。
「区の方から、皆さんに健診のお通知をいろいろと差し上げても、1回も来ていただけない方が多かったんです。健康寿命を延ばすには、そういった方が少しでも健康になれるような取り組みをしていかないといけないんですが……」
そこで足立区は大胆な手法を選択した。それが、節の冒頭に紹介した「足立区民の健康寿命は都平均より約2歳短い」というショッキングな調査結果を見出しにすえた広報紙を区民に配付したことだ。表紙には、見出しとともに、病院のベンチで頭を抱えている中年男性の姿が写っている。「自覚症状は無かった」との文言の横に、男性の独白が続く。
「若い頃からスポーツをやっていたので健康には自信がありました。だから健診の結果を軽く受け止めていたんです」(区内在住Tさん 40代)
そして、「足立区民の健康寿命は都民の平均より約2歳短いことをご存じでしたか? 区では、偏った食生活が引き起こす生活習慣病が、その大きな原因であると分析しています。今後10年をかけて、区はその解決に向けて取り組んでいきます」と区の決意表明とも言える文章を掲載した。