金大中は民主化運動の旗手でした。金大中は全羅道の木浦商業学校卒業後、海運会社経営を経て、29歳(1954年)の総選挙で立候補するも落選。1959年、1960年と続けて落選し、ようやく1961年に補欠選挙で国会議員に初当選します。このときの当選は朴正煕による軍事クーデターによって無効となりますが、1963年の総選挙でふたたび当選し、野党の指導者として頭角を現しはじめます。
朴正煕大統領の独裁に反対し、金大中は1971年の韓国大統領選挙に立候補します。朴ら軍事政権は当初、金大中を甘く見ていましたが、投票結果は朴正熙(民主共和党)が643万2828票(得票率53.2%)、金大中(新民党)539万5900票(45.3%)で、朴の辛勝でした。しかも、不正や不法が半ば公然と行われていた状況下での辛勝です。朴正煕や政権中枢部は、金大中らの民主化運動を脅威と感じはじめます。
大統領選の直後、金大中の乗る車に大型トラックが突っ込む事故が起きました。金大中は奇跡的に助かりましたが、股関節を負傷。このときのケガで、以後まっすぐ歩けなくなりました。事故を起こしたトラック運転手や金大中のボディーガードなどが証言しており、現在では暗殺工作ではなく、偶発的な事故だとみられています(*2)。
しかし、71年にKCIAが関与した爆破事件を自宅で起こされていたこともあり、金大中はこの事故を、KCIAの暗殺工作だと考えました。以後、金大中は危険を避けるため、アメリカや日本で亡命生活を始めます。そして海外から民主化の呼び掛けを行い、国際的に「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていきます。
そうした中で朴政権は、金大中をこれ以上放置することはできないとの判断を固めていったようです。
日本の暴力団に殺害させる計画も
当初KCIAは、日本の暴力団を使う計画を立てていたようです。2006年の真相調査委員会の報告書には、日本の暴力団に金大中の拉致や殺害を実行させる案を検討したという関係者の証言のほか、当時の韓国大使館の公使から金大中の「除去」について提案を受けたが、警察のマークが厳しく計画に参加できなかったという、在日コリアン系の暴力団組長の証言が記されています。
結局はKCIAが自ら要員を派遣し、計画が遂行されることになります。この計画は金大中のイニシャルをとって、「KT計画」と呼ばれていました。日本には当時、KCIAの要員が24人~26人潜伏していたと言われています(東亜日報など、40人以上いたという説をとる向きもあります)。要員たちは日々、金大中を尾行し、拉致の機会をうかがっていました。金大中もそれに気付いており、2、3日ごとにホテルを変え、日本人風の偽名を使いながら、追跡を逃れていました。