「結果」重視の親が子どもの受験を台なしにする
「不合格」を食らってしまったチームの中には、その場で泣き崩れる選手もいるかもしれない。しかし、それは決して「負」の感情からくるものではない。「負けて悔しい」。そんな思いが残ったとしても、それは「今までの自身の野球人生」に向けられるのではなく、今日の試合内容に限定されるはずだ。
ほとんどの球児たちの涙は「今まで一緒にプレーしてきたチームメートと野球ができなくなるのが名残惜しい」「今まで一生懸命野球に打ち込んできてよかったという満足感」などがもたらすものではないだろうか。
「くそっ、高校野球なんてやらなければよかったぜ」などと毒づく選手はいないはずだ。
高校野球はこのように「不合格」であっても、爽やかな余韻を自他双方に残してくれる。それは、高校野球に携わる人たちが、「結果」より「過程」を貴んでいるからだ。
もちろん、当の選手たちは「良い結果」を追求するがゆえにハードな練習を積み重ねるわけだが、実はその価値は「結果」にあるのではなく、「自身の内部」にあることに思い至るのである。そういう意味で、高校野球は「教育的な世界」といえるだろう。
中学受験で第1志望校に合格できるのは「3人に1人」
高校野球の価値を論じたが、翻って中学受験の世界はどうか。
子どもたちは「合格」を目指して、日々の学習に精励している。その姿は先の高校野球同様、爽やかな感情をわれわれ大人に運んでくれることだろう。まだ12歳なのに、勝つか負けるかの大一番で自分の持っている力を出し切ろうとするけなげな教え子たちを見ると、わたしはいつも心が震える。
しかし、その「結果」が判明するときに一気に様相が異なってくることがある。
中学受験で第1志望校に合格できる子どもは「3人に1人」と言われている。換言すれば、「3人に2人」は残念なことに不合格を食らってしまうのだ。
わたしは中学受験での「不合格」が子どもに大きな傷跡を残してしまうケースを度々目にしてきた。その素因の多くが、子どもの「不合格」に周章狼狽してしまう親の態度にある。
中学受験に携わる大人たち、とりわけ親の多くは、その「過程」よりも、子が少しでもランクの高い学校に合格してほしいという「結果」を追い求めてしまう傾向にある。そのような親は子どもが不合格を食らってしまった場合、中学受験そのものに対し「極めて残酷な過当競争」と後悔しきりの心持ちに陥ってしまう危険性が高くなるのだ。
せっかく子どもが果敢に立ち向かった「戦い」の結果が自分の意に沿わなかったからと、全く無価値なものだと言い放つような言動をする親がいるのだ。