苦しいのは生徒だけ?
さて、このところ連日のように、部活動改革関連の話題を見聞きするようになった。部活動が、あまりに負担が大きく、また理不尽なことが多すぎるというのだ。これら部活動関連の諸問題には、先生にも生徒にも当てはまることが多くある。その休みなき過重負担に、先生も生徒も悲鳴を上げている。
これまで部活動を問題視する議論の大半は、「生徒の苦しみ」に向けられてきた。部活動が過熱し、練習を休めない、勉強に割く時間がない。根性論的な指導による身体への負荷(熱中症や野球肘・肩)、安全配慮の欠如による死亡や重度傷害、部内のいじめやしごき、さらには顧問による暴力や暴言など、これらはいずれも、生徒が受ける被害であった。
他方で、「先生の苦しみ」には、長らく関心が寄せられてこなかった。むしろ、先生たちは、「生徒の苦しみ」を引き起こしたことの責任が問われ、部員を適切に指導できなかったことについて教員としての資質を問われるというのがオチであった。
私たちがそうした「生徒の苦しみ」を強調するばかりに、部活動という巨大な慣行のもとで苦しんでいる先生たちの声はかき消されてしまう。「部活やめたい」というのは、生徒だけではなく先生の声でもある。生徒が被害者で、先生が加害者という従来の構図に加えて、生徒と先生の両者の苦しみに目を向けるところから、部活動改革を考えていかなければならない。
部活は楽しい! 魅力が魔力に変わるとき
「しんどい」「休みたい」などと書くと、部活動はすべてにおいて、まるで生き地獄のように見えてしまう。だが、中学校や高校で生徒として部活動を経験し、それを振り返ったときには、むしろ逆の実感をもつ人が多いだろう――「つらかった面もあるけれど、部活動はやってよかったと思っているし、学校生活のなかでいちばんよい思い出になっている」と。
なるほど、クラスメートとよりも部活動仲間とのほうが、濃密な時間を過ごす。卒業後も、親友として付き合いがずっと続くこともよくある話だ。大学入試や高校入試の面接でも、部活動でどれほど頑張ったかを、誇りをもってアピールする受験生も多いと聞く。強制的な苦役というよりは、みずから積極的に関わった意義ある活動として、その経験は語られる。
先生もまた、同じような思いを共有している。毎日と毎週末の部活動は、たしかにつらいこともあるけれども、それ以上に楽しいことも多い。日々の練習をともにして、一つひとつの勝ち負けに一喜一憂し、3年生の引退試合のときには、皆で涙を流す。
自分が積極的にかかわるほど、チームは活気を増し、技能は上達し、土日を惜しんで練習するようになる。生徒は部活動顧問をクラス担任や教科担任以上に慕い、そして保護者は顧問を厚く信頼する。部活動では、絆や達成感、信頼感という何にも代えがたい感情的なつながりが生み出される。