急激な経済成長は衛生面を置き去りに
ことの善し悪しは置いておくとしても、この40数年で日本人の衛生観念は変化した。当時は、現代からすると「ありえない」光景であふれていた。1974年には即席めんにカビ、ネズミのフン、虫などが混入していたとして、2000以上の製造、販売業者が処分を受けた。まだ商店や飲食店の天井からハエ取り紙が下がっていた時代の話だ。
ちなみに「包丁試し」の審査を最終的に取りしきったのは、“包丁貴族”との異名を持つ団英彦という一流ホテルのシェフだった。このシェフ、ホテルの厨房にハエが一匹いたというだけの理由で「ウウ……気分がわるい!」「だ、だれかわたしのベッドを用意してください」と倒れ込んだ揚げ句、ホテルを1カ月間休業させてしまう。異常なまでの潔癖症とも言えるキャラクターだ。
にも関わらず、この団英彦は「包丁試し」で汗入り潮汁を支持し、味平の勝利を告げる。総評で「こういう汗のにおいのするフケツきわまりない料理のつくりかたは生理的に大きらい」と言ってはいるが、ことは好き嫌いの問題ではない。団よ、なぜこの勝負だけ衛生観念が欠落してしまうのか。高い技術を持つ潔癖な男でさえも、時代の空気には流されてしまうということなのか。
どんな理想を掲げる者であっても、「食」という人間の営みに関わる職業において、その時代を形成する社会の空気と無縁ではいられない。もし勝負がもっと後世で行われたなら、団英彦の判断は高潔な高みからブレることなく、「包丁試し」の結果においても味平が勝利することはなかったに違いない。
外食文化の黎明期、衛生環境が不十分だったのは、衛生意識の欠如だけが理由ではない。日本の高度成長期は世界の歴史上、類いまれな、目覚ましい経済成長だった。食品製造業や外食産業も例外ではない。急速な発展は、衛生意識やコスト面を置き去りにした、いびつな成長だった。そして成長と繁栄を優先した結果、現代で言う「食品偽装」や「食材偽装」が横行するようになる。
『包丁人味平』にもそうしたシーンは描かれている。序盤の舞台であるキッチンブルドッグのチーフコックは前回(http://president.jp/articles/-/21839)紹介した北村だが、一時期店を離れた折、後に包丁試しで味平と勝負することになる仲代が北村の代理として店を切り盛りするシーンが描かれている。そのとき、仲代はひそかにメニューの内容を変更していた。ハンバーグのパティを牛肉から「ブタ肉が3割に魚のソーセージをひいたものをまぜた粗悪品」に変えてしまうのだ。本来であれば、ハンバーグの仕込みを変えれば、厨房のコックたちにはわかるはず。しかしながら、キッチンブルドッグのコックたちはベテランも含め、この件に一切気づいた様子がない。そろいもそろって注意力に欠けている。