佐々木監督の卓越した手腕

ワールドカップの優勝から、少し時計の針を戻してみよう。大橋監督の任期満了に伴い、08年1月になでしこジャパンのコーチから監督に昇格したのが、佐々木則夫である。彼はコーチ時代から、なでしこサッカーの変革とさらなる進化を志向していた。

「僕が女子のカテゴリーに指導者として来たときに、ユース年代の指導者も兼ねていました。上のなでしこのコーチ、そして下のU-20の監督をやっていました。なでしこを見て、堅守速攻ではなく『攻めも守りも、こちらからアクションしていくサッカー』の可能性を感じていました。それをU-20の若い年代の代表で試した。ヨーロッパ遠征でプロチームとやったときに、連戦連勝したんです。日本の女性の資質も含めて、これはいけると感じました。その翌年に、なでしこの監督に就任することが決まりました。そこからは、もう僕のサッカーを貫くということで新戦術を取り入れました」

就任後、わずかな時間で、東アジア選手権に優勝。08年の北京オリンピック4位という結果を残した。

佐々木ジャパンの戦術上の成功のカギは、得点源でエースの澤をフォワードからボランチへコンバートすることだった。佐々木は言う。

「澤のボールを奪う嗅覚をずっと素晴らしいと思っていましたし、彼女の身体能力からも、ボランチに適性があると見ていました。それと、もう一つ強調したいのは、23歳の若いフォワードの阪口夢穂もボランチに起用したことです。パートナーとして、澤の近くでプレーを見せながら、彼女の持っているパワーとセンスの開花するのを辛抱強く待ちました」

その手腕について、上田はこう語る。

「佐々木の志向する『攻守にアクションするサッカー』は日本の女子にピタリと合うものです。意図的にチャンスをつくりボールを奪う。攻撃でも守備でも主導権を取れるのは、私にはできませんでした。彼は緻密な戦略家です」

佐々木はサッカーの名門・帝京高校でキャプテンを務めた。明治大学を卒業後、日本電電公社に入社。電電関東(その後NTT関東)サッカー部でプレーした。33歳で現役を引退して、指導者の道に入る。1998年にはJFL(旧日本サッカーリーグ、Jリーグの前身)時代のNTT関東サッカー部で、社員の肩書のまま監督を務めた。いわゆる“サラリーマン監督”である。
※すべて雑誌掲載当時

佐々木則夫●サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)監督
1958年生まれ。明治大学を経て、NTT関東サッカー部(現・大宮アルディージャ)でプレー。同チーム監督などを経て、2008年より現職。10年アジア大会優勝。11年女子W杯ドイツ大会優勝。

上田栄治●日本サッカー協会理事・女子委員長
1953年生まれ。青山学院大学を経てフジタ工業クラブサッカー部(現・湘南ベルマーレ)でプレー。マカオ代表監督、日本女子代表監督、湘南ベルマーレ監督などを経て、現職。

宮間あや●岡山湯郷Belle ミッドフィルダー
1985年生まれ。幕張総合高校卒。NTVベレーザ(現・日テレベレーザ)を経て、岡山湯郷Belleの発足に参加。米国女子サッカーリーグを経て、2009年、岡山湯郷Belleに復帰。03年より日本女子代表。

(上飯坂 真=撮影 AP/AFLO=写真)