下の年代からの強化が大切

プロのコーチとして“結果”を残さなければ次のステップに進めない、というプレッシャーのなか、上田は全力を尽くし、マカオ代表をFIFAランキング180位前後まで引き上げた。

「マカオ代表での2年半で一定の成果は出せました。ですが、2、3年のスパンでは到底変えられないことが沢山ありました。やはり10~15年かけて下から積み上げるような組織がないと、サッカーは強くならない。ゴールデンエージと呼ばれる12歳までの子どもや、ユース年代の強化なくして、代表の強化はないということを、身にしみて実感しました」

日本へ戻ることになった上田に次なるオファーが届く。日本の女子代表監督への就任要請だった。「え、女子か?」というのが率直な感想だった。
「ですが、台湾でのアジアカップの映像を見たときに、ものすごく一生懸命さが伝わる試合をしていました。サッカーの質、やる気やメンタリティも高い。これは代表の監督をやる価値があると思い直したんです」

当時、2000年のシドニーオリンピックへの出場を逃し、女子サッカーへの関心が急速に冷え込んでいた。一時は人気が高かったLリーグ(旧日本女子サッカーリーグ)の観客動員も落ち込み、チームの撤退も相次いでいた。日本の女子サッカーは存亡の危機にあったのだ。アテネオリンピック出場が至上命題とされたが、これもたやすいものではなかった。澤穂希の活躍で宿敵・北朝鮮を破り、04年のアテネオリンピックの出場を決めた女子代表に、「なでしこジャパン」の愛称がついたのはこの年の7月7日のことだ。

8月のアテネ本大会では、強豪スウェーデンを1対0で破り、決勝トーナメントに進出する。準々決勝では、金メダルを受け取ることになるアメリカに1対2で敗れたものの、ベスト8に輝く。「なでしこジャパン」は、その年の新語・流行語大賞の候補にノミネートされた。ここにおいて「なでしこジャパン」は女子サッカーの代表チームであると、多くの日本人の記憶に刻み込まれた。だが、その成果にも、上田は限界を感じていたのだという。

「私が導入したサッカーは、しっかり守って、相手のボールを奪って速攻というものでした。その戦術では、スウェーデンに勝つことはできても、アメリカやドイツといった世界の本当のトップの国には勝てないということがわかったんです。これ以上私が続けても、チームを強くできないという思いと、自分自身がステップアップをする必要性を感じたので、監督を辞めることにしました」

結果を残した上田を惜しむ声が選手からあがったが、なでしこジャパンの監督は04年10月、大橋浩司にバトンタッチされる。

その後しばらくして上田はマカオで痛感した、長期を見据えた育成の土台づくりに着手する。まず手がけたのが「なでしこビジョン」の制定だった。

「06年の9月に日本サッカー協会の女子委員長に就任しました。そのときに、すべての人が共有できる女子サッカーのビジョンをつくろう、という提案をしました。それまでも漠然としたものや、各方面で個々に目標としていたものはありましたが、整理された具体的な目標をつくりたかったのです」

女子委員会のメンバーや、他の部門の部長クラスが、議論を闘わせた。「これはビジョンとは言えない」という、言い合いもあった。いちばん大切な、ビジョンの最初の言葉が、なかなか決まらなかったのだ。上田が続ける。

「われわれの夢は『なでしこ』の名を世界に馳せること。日本の女子サッカーを世界に認知させたいのだ、ということを『世界のなでしこになる』という言葉でピタリと表現できるまで10カ月かかりました」

なでしこビジョンは、07年の6月に理事会で承認された。「世界のなでしこになる」という言葉に続いて3つの目標が定められている。

1.サッカーを日本女子のメジャースポーツにする。

2.なでしこジャパンを世界のトップクラスにする。

3.世界基準の「個」を育成する。

2番目の目標には「2015年、FIFA女子ワールドカップで優勝する」というサブタイトルがついている。じつは今回のワールドカップドイツ大会前の今年上旬に、ビジョンのマイナーチェンジが行われていたのだ。FIFAランキング5位になったことを機に、「世界のトップクラスにする」の言葉から、前記の“優勝”に修正が加えられていた。

結果論とはいえ、書き換えた直後に4年後に達成するはずの目標に到達してしまったのだ。

確固たる理念を掲げ、その目標の実現に向かって邁進することの大切さを証明してはいないだろうか。本田宗一郎が、創業当時から「世界一になる」と宣言していたことは有名だが、なでしこの偉業は、そのエピソードに比肩しうる、というと少々大げさだろうか。