▼「モノ造り革新」の真実:前編「トヨタとマツダが技術提携に至った"事件"」
http://president.jp/articles/-/22041
マツダ、コモンアーキテクチャー開発前夜
まずはコモンアーキテクチャー開発前夜、マツダがどういう状況に置かれていたかから話を始めよう。1990年代初頭、マツダは国内ディーラー網の5チャネル化に失敗し、どん底に沈んだ。ディティールはひとまず措こう。進退窮まったマツダを救ったのは、フォードだった。1996年、フォードは出資比率を33.4%に引き上げ、フォードグループの車両開発の一部をマツダに委託した他、経営幹部を送り込んでブランドの再構築に着手した。ちなみに日本の会社法では、3分の1を越える株式を所有していれば、重要議決の拒否権を持ち、会社の方針に大きく関与できることになる。つまりフォードはただマツダの危機を救おうというだけでなく、マツダそのものに興味があったことになる。
フォード傘下でのマツダは2006年から「モノ造り革新」を進め、フォードの指導によって「Zoom-Zoom」(Zoom-Zoomとは、英語圏における幼児語のブーンブーン。動くものが本質的に持つ楽しさを表す)宣言の下、リブランディングを進め、一度は業績回復の波に乗ったかに見えた。だが、それはリーマンショックによるフォードの業績急変によって再び挫折する。マツダブランドの再建に際し、フォードは大きな貢献もしたが、同時に大きなカセにもなっていた。なぜなら、巨人・フォードの大前提である大量生産大量販売は、マツダの実情にそぐわなかったからだ。規模が大きなフォードは、どうしても数の原理で押す部品共用という概念を離れることができなかった。
2008年のリーマンショックで北米経済は大混乱に陥り、フォードは他社の支援を続ける余力がなくなり、マツダへの出資を13%に減額するとともに、車両開発委託をストップし、併せてマツダへのエンジン、シャシーなどの供給条件を厳しくした。「売らないとは言わないが、今までの価格では出さない」。そのコストアップはマツダとしては飲める条件ではなかった。開発委託の収入を失い、さらにそれと表裏一体になっていたコンポーネンツの供給条件も厳しくなった。
エンジンもシャシーも何もない
すでにフォード傘下での13年間で、フォードからのコンポーネンツ供給がすっかり前提になっていたマツダにとって、それは絶望的状況だった。皮肉なことにフォードのエンジンのうちのひとつは、マツダが設計してフォードグループ全社に供給されているエンジンだった。供給が止まれば、全車のエンジン、トランスミッション、シャシーと言ったクルマの根幹となる主要コンポーネンツを新規で自社開発せざるを得ない。おそらく自動車産業の歴史を振り返っても、莫大なコストがかかる基礎コンポーネンツを一時にフルラインで一新した企業はないはずだ。そんな大事業に取り組むには、マツダは人もお金も絶望的に足りない。
この絶望的な状況をどうやって乗り越えるのか? マツダにとっては、まさに死活問題だった。フォードがマツダへの出資比率を下げ、従来の開発手法を踏襲するなら、車種を絞り、規模を縮小して出直すしかない。
だが、縮小ができない理由があった。藤原専務はこう説明する。
「縮小するのは簡単なことではなかったんです。当時のマツダのマーケットは、日本、アメリカ、欧州、その他全部が大体25%ずつだったんですね。重要な順に並べられない。しかもそれぞれの地域市場を見ると、アクセラはど真ん中にあり、全世界で需要があるのでとても重要。でもそれ以外のクルマもみんな、それぞれのエリアで重要商品なんです。デミオを切ったら日本や欧州の販売会社が持たない。CX-9を止めたらアメリカの販売店が悲鳴を上げる。これから先も世界の販売会社と一緒に仕事をしていくことを考えたら、とても縮小できません。車種を絞ろうにも、必要なクルマは思ったより多いのです」
エリア毎の販売網はメーカーにとって何物にも代えがたい財産だ。雇用の問題、今後の発展性の問題、どの面から考えても、地域を丸ごと切り捨てる戦略は取れない。