とりわけ一つのエポックメーキングとなったのが7代目利助の時代です。時は田沼時代から松平定信の寛政の改革に移った緊縮財政のころ、大変な経営危機に直面しました。そのとき、この7代目利助が難局を切り抜けるために、創業以来の歴史を整理し参考にしたのです。

その一つが勘定目録帳です。いわゆる決算書を半期ごとにまとめたものです。もう一つは、「定(店則)」というもので内容を現代語訳にすると、「国で定められた法令については全員が厳しく守れ」というもの。それを必ず月1回、社員に向かって言わなければいけないというルールもありました。今でいうコンプライアンスです。「社員は協調して、分に相応のかたちをしながら、仕事をしっかりしなさい、派手にしすぎるな」と書かれています。また、「常に品物を良く吟味して、薄口銭で売る。たとえ品不足になったときでも日頃定めたものよりも高い値段にするようなことは決してするな。世の中が困るようなことは一切行ってはならない」とも述べられています。

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従業員が骨身惜しまず働いた訳は?

積立金制度も改め「定法書」に定め、「三法」を決めました。三法とは、純益から普請金・仏事金・用意金の積み立てで、その財源や運用の方法を決めたのです。普請金は建物の再建のための費用で、とくに火事の多い江戸では類焼があったとき、このお金が役立ちました。仏事金は本家の諸仏事の経費、用意金は何かあったときのために使うお金で、財源は地代や貸付利息など。積立金自体を増やすという知恵がありました。

7代目利助はこのほかにもいくつか制度をつくっています。その代表的なものが、1789年からはじまった「三ツ割銀制度」です。これは純益の3分の1を従業員に渡すという制度で、残りの3分の1はそれぞれ内部蓄積、本家へ納めました。この日本初のボーナス制度によって従業員が骨身惜しまず働く結果となりました。その後、お金を渡すと使ってしまうので、帳簿上に記録し、余裕資金を投資に回し、のれん分けする退職時に利金をまとめて渡すという、今でいう退職金のような制度もここから発展していきました。

こうした近江商人の代表的な考え方として「三方よし」があります。売り手、買い手、世間の3つに対し「よし」でなければいけないというものです。私が西川家に入り、社長を拝命したのが10年前。当時は30代後半で、自分自身で全社員の心をまとめられる自信もなく、本家に残されている文書を読んで勉強しました。14代もの歴史があると、戦争、地震、疫病と様々な苦難を乗り越えています。

関東大震災では日本橋の店も損壊しましたが、仮設店舗のようなものをつくって、すぐに販売を開始しています。興味深いのは、そのときに定価で販売していることです。寄付することも大事なのですが、寄付には当然限界もある。本当にいいものを適正な価格で、薄い利益を乗せて、きちんと供給することが大事だということを守っているのです。それは家訓である「誠実・親切・共栄」にもつながる考え方だといえます。