世界第2位、カザフのウラン争奪戦
これらの動きを一番喜んだのは、日本の原子炉メーカーだ。彼らは90年以降、逆境に阻まれながらも、コンスタントに原子力発電所を建設し続けてきた。そして“原子力ルネッサンス”の機運を一気に高め、原子力大国への可能性を具体的に示したのが東芝だった。
世界14カ国に34カ所の拠点を持ち、100年を優に超える歴史を持つウエスティング・ハウス(WH)は原子力業界の巨人。そのWHを東芝が6000億円(当時)を超える巨費を投じて買収した。
西田厚聰社長(当時)が、「(WHの)買収によって、当社は今まで見たこともない世界に乗り出した」と振り返るほど、東芝によるWH買収は衝撃的だった。事実、この直後、中国から四基の原発を受注した東芝だが、同買収についての中国の報道はまるで米国企業が受注したようなトーンだった。まさにWHは米国の象徴で、原子力の世界では米国企業そのものだったからだ。
東芝によるWH買収に次ぎ、日本勢を勢いづかせたのが、06年夏の小泉純一郎首相(当時)のカザフスタン訪問。さらに07年4月に行われた日本初といっていい官民一体での大訪問団のカザフスタン再訪だった。その狙いは世界第2位、カザフの地に眠るウラン。原子力発電の燃料となる貴重な地下資源だ。
訪問団は壮観だった。甘利明経産相(当時)を筆頭に経産省からは後に事務次官となる望月晴文(当時、資源エネルギー庁長官)、民間からは各電力会社の社長クラス、丸紅、住友商事など大手商社の首脳、原子炉メーカーの社長などが一堂に顔を揃えた。カザフのウラン権益には、商社の丸紅、保守的な電力会社の中でも関西電力、メーカーの東芝が、いち早く動いた。だが、この官民一体の訪問団の道筋をつけたのは、望月の密使に見られるような、水面下で粘り強い交渉を続けた経産省の若手官僚たちだった。
胎動し始めた原子力大国、日本。ところが、突然冷や水を浴びせかけられる事例が発生した。原子力プロジェクト受注に間違いないと高を括っていた09年12月末のUAE(アラブ首長国連邦)での敗退、今年2月のベトナムでの完敗だ。
ここに至ってようやく鳩山首相(当時)も危機感を持ち始める。けれども、原子力ビジネス獲得の具体的な手立てを講じたのは、仙谷だった。