往年の作家の回顧展などで、直筆の手書き原稿を見ることがよくある。最初の原稿に原形をとどめないほど、推敲が重ねられた跡を目の当たりにすると、読み手に向けて発せられたすさまじいばかりの書き手のエネルギーに圧倒される。

その原稿を最初に目にした編集者も、書き手のエネルギーに突き動かされて、一字も漏らさず読み込んだことだろう。文章の原点を見る思いだ。

<strong>高橋 温 住友信託銀行 会長</strong>●1941年、岩手県生まれ。盛岡第一高等学校卒。65年京都大学法学部卒後、住友信託銀行へ入行。社長を経て、2005年6月から現職。「言葉が乱れると、国も社会も貧困の中に沈んでいく。正しい言葉を保つことが必要です」
高橋 温 住友信託銀行 会長●1941年、岩手県生まれ。盛岡第一高等学校卒。65年京都大学法学部卒後、住友信託銀行へ入行。社長を経て、2005年6月から現職。「言葉が乱れると、国も社会も貧困の中に沈んでいく。正しい言葉を保つことが必要です」

作家の文章とビジネス文書を単純に比較することはできない。ただ、ビジネス文書の中でも最も重要な位置を占める社内の決裁書類は、文章をもって組織に自分の意思を通し、上層部を説得する手段だ。言葉で人を動かすという点では共通するものがあるはずだ。

ところが、社内であがってくる決裁書類を見ると、書き手の意思もエネルギーも希薄に感じられるものが多くなったのはどういうことだろう。原因の一つは、ビジネス文書を作成するうえで、今や不可欠の手段となったワープロそのものにあるように思う。

手書きとワープロはどこがどう違うのか。私自身は20年来、書道を趣味とし、電話よりも手紙を多用する手書き派だ。言葉を一つ一つ手書きしていくにはエネルギーが必要だ。その分、書き手の意思や思いが込められる。

著名な書家で、独自の書論を展開されている石川九楊氏によれば、われわれが「雨」と書くときは、それが同じ雨カンムリでも「雪」ではないことを同時に意識するなど、頭の中で「雨」の字を反すうしながら書いているという。それだけエネルギーが費やされるため、長く書くことは難しい。

一方、ワープロは「あめ」と打って変換すればいい。さほどエネルギーを必要としない。楽な分、効用として自由に発想が広がり、頭に浮かぶことをどんどん打ち込むことができる。私も社内のイントラネットで非公式な情報を交換するときはパソコンを使う。