最後まで藩士として戦い抜いた理由
河井継之助が若くして傾倒したのは、同じ儒学の一派でも官学の朱子学ではなく陽明学です。17歳の頃、中国古代の儒者の儀式を模して陽明学の学祖である明の儒者、王陽明を一人祀って「十七誓天疑輔国」という漢詩を読んでいます。つまり17歳で国(藩)を支えることを天に誓った。
陽明学の基本思想の一つに、知識と行動は一つでなければならないという「知行合一」があります。継之助は17歳で天に誓って以来、国を助けることが人生の行動目標になり、そのために自分の命を使う方法や場所を探すことが学問の目標になった。お仕着せの立身出世の道を良しとせず、30過ぎまで江戸に遊学し、諸国の高名な学者を歴訪していたのは、志を貫き、時勢を救済する道を懸命に求めていたからです。
当時にあって、彼は極めてグローバルな視点の持ち主で、日本を取り巻く世界の情勢にも通じていたし、封建制の崩壊や士農工商がなくなる時代の到来を早くから予見していました。しかし、どんなに幕府の権威が揺らいでも、西国の志士たちのように勤皇倒幕には走らなかった。長岡藩という徳川譜代の藩士という立場に自らをくくりつけ、作中の言葉を借りれば、「その拘束の中で人間は懸命に可能性を見出し、見出すために周囲と血みどろになって戦わなければならない」と思っていたからです。
長岡藩を率いて官軍と戦ったのも、ギリギリまで旧幕府軍と官軍の調停を目指した末の決断です。最後までただ国のために身を投げ出した。そんな彼の生き様が、退院後の私の人生にも大きな影響を与えてくれました。
3カ月ほどでようやく退院を許されたものの1年の自宅療養を余儀なくされましたが、職場に復帰した頃には、怖いものはなくなっていました。