2010年、ドイツの公道で自動車事故が起き、成瀬弘が亡くなった。職業はトヨタのテストドライバー。走行テストから感じた車の乗り心地や性能を開発に反映させる技術者だった。著者が成瀬の死亡記事を目にしたことが、本書を書く発端になった。
「普段は表に出ないテストドライバーがどんな役割を果たしているのか、知りたくなったんです。取材で聞きたかったのは、現場で働く人たちの声。彼らの仕事に取り組む思いがわかれば、企業の根幹が見えてくる。そう思いました」
成瀬の生涯を取材して浮かんできたのは、豊田章男現社長との特別な関係だった。二人が初めて会ったのは約15年前。成瀬は一社員にもかかわらず、将来の社長候補だった豊田に、「運転のこともわからない人に、車のことをああだこうだと言われたくない」と言い放った。しかし車を正しく評価できるようになりたいと考えた豊田は、趣味のゴルフをやめ、成瀬から運転技術を教わるようになる。
「最初、二人の関係性を描くつもりはありませんでした。でも、遠くにいた二人が歩み寄る物語に惹きつけられた。成瀬さんは社長に現場の考えを伝え、その声を聞いて社長は経営哲学を作っていく。近年、現場と経営側の距離が離れ、迷走する企業が多い。トヨタがそうなる可能性もあった。溝を埋めたのが、二人だったのかもしれません」
09年、豊田は社長に就任。数値を明言せず、「いい車をつくろう」と素朴な目標を掲げた。こうした方針を、「気持ちよく乗れる車づくりを目指した、成瀬さんの影響がにじみでている」と著者は考える。
本書を完成させるため、「どうしても実現したかった」のが豊田へのインタビューだ。折に触れて手紙を送り、出席するイベントに通っては挨拶した。結局、対面での取材をとりつけるのに5年を要した。
「ただ時間が経ったことで社長の中で何を語るべきか、心の整理がついたように感じました。印象に残った発言は、『今は成瀬さんが自分の中にいると思えるようになった』。『人を鍛え、車を鍛える』など、社長は成瀬さんと同じ言葉を口にすることがあります」
失われた成瀬の命は豊田の中に宿り、車づくりへと吹き込まれていく。たとえまだ路上を彷徨っているとしても、「車は道がつくる」。それもまた、成瀬の言葉だ。(文中敬称略)